鎌倉時代初期に三田将監が下向し、以後三田氏が前沢を治めたが、
江戸時代には伊達家の所領として、大内、成田、飯坂氏が入り、
最後に三沢氏が8代計190年間明治維新まで3千石で治めた。
(『現地石碑、案内板より』)
現在、御物見公園となっており、展望に優れるものの、遺構は何も残っていない。
麓にある小学校に三沢氏居館表門が残っている。
安倍忠頼・忠良・頼時3代(80余年間)、安倍氏の居城であった。
その後、貞任の時に古舘(安倍新城)に移ったか。
(『現地案内板より』)
現在は、東郭は田んぼとなっており遺構はなく(左端画像)、
西郭と呼ばれる山城が残る。
城址に明確な遺構はないものの、
「コ」の字が東に開いたような状態で階段状になって残っている。
南股川を挟んで対岸には、源頼義の陣地であったらしく、
現在は八幡神社があり、この間では、
やじりが多数出土したと現地の方からうかがった。
興国4年/康永2年(1384)に、
薄衣城主千葉清純(清堅とも)の4男、千葉平七郎隼人正村が城主となり葛西氏に仕えた。
以後、10代民部信胤まで続いたが、天正18年(1590)葛西氏と滅亡を共にした。
現在、砂鉄川の左岸に位置し、西の砂鉄川側は崖となっている。
本丸(右端画像)、二の丸(中央画像)、三の丸から構成され、空堀で切られている。
またそれぞれの曲輪は空堀で囲まれ、
三の丸にはうっすらと虎口、土橋(左端画像)が残っている。
ともかく、遺構の残存状況は素晴しいの一言。
本丸がグランドゴルフ場になっているのはどうかと。
金野義綱が建久2年(1191)頃に葛西清重より千厩領を拝領し、
城主になったと推測されている。以後、貞澄まで25代続いたが、
天正18年(1590)桃生郡深谷の戦いで討ち死にし、葛西氏と運命を共にした。
現在、館山公園となり、曲輪構造は残るが、
土塁や堀切などは残っていない。
安倍12柵で唯一の明らかな柵。安倍頼時の3男鳥海三郎宗任が守っていた。
天喜5年(1057)頼時はここで戦死した。
前九年の役(1051〜62年)で鎮守府将軍源頼義がここに入城している。
(現地案内板より)
胆沢川の北岸に位置する。
東西に深い空堀が残る(左画像)。本丸は畑となっており(右画像)、
二の丸、三の丸は畑や工場跡になっている。
東北自動車道が縦断している。
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