応永15年(1408)佐々木将監繁綱は葛西氏を頼り、下向し、
城主となったようである。その後、葛西氏家臣として活躍し、
天正18年葛西氏の没落と共にした後、
伊達家家臣白石氏により修築された。
寛永6年(1629)に金ヶ崎城
主の留守氏が移って来て、その後、留守氏が明治維新まで続いた。
廃藩置県後、胆沢県庁となり、現在は水沢市市役所を経て、
奥州市市役所となり、「姥杉」だけが残っている(画像)。
安倍貞任の弟、白鳥八郎安倍行任(則任)、または藤原真衡の居館だったと伝わる。
中世に入り、山名駿河守義信の後裔と称する、白鳥氏の居館であったが、
葛西氏と運命を共にした。
現在は、北上川に突き出た位置にあり、先端部は採石で消失している。
その影響で一の郭は南の部分だけが残り、
一方、二の郭はそのまま残り、三の郭は住居となっている。
郭の間にある、空堀はよく残っている。
平泉の世界遺産運動に伴い、この白鳥舘も組み込まれたせいで、
あろうことか、空堀に白い石の飛石が布かれ、
全く雰囲気は台無しである。何のための世界遺産なのだろう。
留守氏、伊達氏、田村氏が江戸時代以降、一関を治めた。
天和2年(1682)岩沼より三万石で田村建顕が入り、築城した。
当時は、太鼓櫓や水堀、土塁などあったようだが、
現在は、遺構は何も残っていない。
興田・高崎氏が居城していたと伝わるが、
天正年間(1573〜1590)末期に小野寺伊賀の居城であった。
現在は、釣山公園となっており、山頂から北東側にかけて、
曲輪の跡らしい平坦地が複数残っており、
山頂には、田村神社、千畳敷が残っている。
葛西清重が藤原泰衡追討の軍功で奥州代官となり下向した際に、
千葉頼胤もその麾下として従った。それ以後、長坂千葉氏の居城であった。
天正18年(1590)4月17日、22代広胤の時、ここに、葛西麾下の諸将が参集し、
小田原参陣の是非を議した。
結果的に参陣せず、葛西氏と共に滅亡した。
本丸の土塁には、初代の千葉頼胤の供養碑が立っている。
本丸を1段下った、曲輪には池がある。東側に尾根を下ると、
こちらが大手であろうか、腰曲輪が続く。
さらに麓へ下ると、遺構らしい箇所があるが、当時の物かどうかは定かでない。
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