九戸氏が築城。
九戸政実が南部当主の座をめぐって田子信直と争い、
当主となった信直が秀吉に援軍を頼んだのがきっかけで秀吉軍と戦う羽目になった。
結局、多勢に無勢で、謀略にはまり落城し、処刑された。
その後、蒲生氏郷が築城し直し、南部藩の本城となった。
江戸期に盛岡に本拠地が移り、廃城になった。
現在は堀、石塁、曲輪(石沢館、若狭館、松の丸)等の遺構がきれいに残る。
石塁に関しては蒲生以後のものという。
秀吉の許可を受け、1597年に築城を始めた。その後、南部藩のまま幕末を迎えた。
現在は岩手公園および桜山神社となっている。
稗貫氏の居城だったが、秀吉により南部家家臣北氏が城主となった。 関ケ原の戦いの際、城主不在を狙い和賀氏による反乱があったが、持ちこたえた。
慶長年間(1598〜1615)に伊達家により築城されたらしいが、
それ以上のことは分っていない。
慶長7年(1602)に桑折左衛門景頼が在城していることが、初見で、
その後、留守宗利が入るも、その後水沢城に移り、
寛永21年(1644)に大町氏が入り、明治維新まで続いた。
現在、遺構は渓谷のような天然の空堀、
および土塁(中央画像)が残るくらいである。
本丸は原っぱになっている(左端画像)。
一方、武家屋敷なども残っており、当時の雰囲気はよく保存されている。
延暦21年(802)征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が、
同年に完成した当城に「造胆沢城使」として入城した。
前九年、後三年の役の後、役割を終えたようである。
現在は、正殿跡など中心部が整備され、それ以外は田畑になっている。
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