源義家の弟、新羅義光が後三年の役の後、常陸守となり、
三男義清がこの地(武田)を拝領した。姓を土地の名(武田)に変えた。
その後、調子に乗り過ぎ、幕府に訴えられるところとなり、
甲斐に流され、甲斐武田の祖となった。
湫尾神社の裏手に、現在は中世の館が再現されてある。
当日は月曜であったために入れなかった。
永享4年(1432)、小野崎越前三郎が石神城を攻めた石神城合戦が初見だとか。
その後、小野崎氏が城主となったが、天文4年(1535)道長の時、
「石神兵乱」を起こし、
佐竹義篤が額田城主の小野崎篤通(道?)に鎮圧させた。
天文16年(1547)両者が所領争いを起こし、石神城は落城し、
通(道?)長は退去した。
その後、永禄年間(1558〜70)に佐竹氏に帰参を認められ、再び城主となっている。
が、慶長7年(1602)の佐竹氏の秋田転封とともに小野崎通広も去り、廃城となった。
城の北東部を当時は久慈川が流れており、崖となっていたらしく、
その崖を背面に西へと展開している。
土塁と空堀からなる3つの曲輪が残る。
ただ余り技巧的には凝られてはいない。
当時は城下町も含めた広い範囲を土塁で囲んだ惣構えだったらしい。
鎌倉初期から鹿島氏の居城。天正19年(1591)佐竹氏により落城された。
現在は遺構一部が城山公園となり、それ以外は消滅したようだ。
城山公園は台地状になっていて、空堀で囲まれている。
曲輪内は公園化され、土塁が部分的に残っている。
八田知家を祖とする常陸守護職の小田氏が築城した。
時期は、知家か、その後小田氏を名乗った時知の頃と推測されており定かでない。
7代治久の頃には勢力を失っていたが、
元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡後に南朝方につき、暦応元年(1338)にはここに北畠親房を迎えた。
「神皇正統記」はここで書かれた。しかし、北朝方の攻撃に屈し、
暦応4年(1341)に北朝方に従うようになった。その後は、上杉氏と北条氏の勢力争いに巻き込まれ、
幾度と落城と奪還を繰り返すも、
15代氏治の時奪還を果たせず、佐竹氏の居城となった。
梶原政景、小場義成が城主となり、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田移封に伴い廃城となった。(現地配布資料より)
平成21年度からの整備工事が行われており、主郭には立ち入れない状況だった。
主郭からは、虎口が南北東に開いており、南側には馬出曲輪がある(左2画像)。
戦国末期には三重の堀と大小の曲輪が主郭を取り囲む縄張りであった。
主郭を突っ切る、かつての筑波鉄道の軌道跡がなまなましい。
平国香の弟良正の本拠地、水守営所があったとされる。
その後、平貞盛の養子の維幹が、水守太夫と称して築城したと伝わる。
戦国時代には小田氏の支城の1つで水守民部が城主であったという。
(図説 茨城の城郭より)
現在は田水山小学校などになっているが、
北向きの台地の突端上にあり、空堀が1本南側に残り(右端画像)、
東側には櫓台らしい古墳を利用したとみられる小山がある(右2画像)。
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