16世紀初頭坂氏から分家した桂広澄が城主となった。(現地案内板より)
西・中央・東の3群に曲輪は分れている。
西曲輪は山頂部を中心に曲輪を配しており、空堀などが残る(中央画像)。
中央曲輪は最高部で北東部の尾根へかけて曲輪が続く。
深い空堀が残る。
東曲輪は確認していない。
小さな山ながら野生の鹿が数頭いて驚かされた。
星野市兵衛、長屋下野が城主であった。(大系より)
麓には楼門、さらに中腹には望楼があるが、
山頂近くの標識で「城」の方へ進み、遺構の案内板のあった山頂を見逃した。
遺構はほとんどないようである。
詳らかな歴史は不明。
三原城の背後の小高い山の山頂部に位置する。
麓から登ると、山頂は意外に奥行が広く、
東西に土塁で囲まれ井戸なのか小さな池や石塁が残る。
構造は素朴な印象があり、戦国前期か。
余談:下山中、暑さのため階段で踏み外し、左足甲を骨折した。
沼田小早川氏家臣浦宗勝の水軍城であった。
現在は標高20mの海に突き出た丘陵上である。
本丸は後世になって削平されたようで、
二の丸に土塁が残っていると現地案内板に書かれてあるがはっきりしなかった。
能島村上武吉が天正13年(1585)秀吉に追われ、小早川領であった竹原に入り、
築城した。天正15年(1587)から一時、小早川氏に付いて離れたが、慶長2年(1597)に戻り、
慶長5年(1600)関ケ原の戦いで西軍に属き、
武吉の子、元吉は因島村上吉充と伊予三津浜に攻めたが、敗れ、戦死した。
その翌年、毛利氏の防長への移封に従い、
周防屋代島に移るまで約6年間の居城であった。
北西側にある登城口付近は竹林で、
数段に渡り曲輪のような段が続くが、当時の物かどうかは不明である。
登り切ると南北に行く通路に出て、その北側が城址である。
が、遺構ははっきりしない。
西側に元吉の墓が残る。
(大系、現地案内板より)
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