天正19年(1589)三吉広高が比叡尾山城から本城を移した。
毛利氏が防長に転封となり築城途中で廃城となった。
尾関山の裏手、標高332mに位置する、広大な城域である。
築城途中で廃城となったようで、北西の奥の方は完全な形を成しておらず、
それでも畝状竪堀数条が残っている(右画像)。
物見台という巨大な土塁が残っている。
また城址は、全体的に針葉樹林で暗い雰囲気であった。
戦国時代に比熊山城の出城として築かれ、
上里越後守守光が城主であったと推定される。
元々積山城と呼ばれていたが、関ケ原の戦いの後、
三吉氏に代わり、安芸福島正則の重臣尾関石見守正勝が2万石で入ったことから、
尾関山と呼ばれるようになった。
福島正則が改易となった後、広島浅野氏の支藩5万石として、
浅野長治が入った。
現在は尾関山公園となっており、遺構はだいぶ消えてしまっている。
ただ郭の跡は残っている。
常陸国宍戸にいた宍戸朝家が建武元年(1334)安芸守として甲立荘を領した。
柳ヶ城を不適として、築城、五龍王を勧請し祈願の末井水が湧出し、
山名を五龍山とした。井戸は現在も麓に残る。
毛利氏に攻められるも落城することなく、天文2年(1533)8代隆家に、
元就の娘が嫁ぎ、和睦した。
慶長5年(1600)関ケ原の戦いの後、防長へ転封となった毛利氏に従い、
周防三丘に移り、廃城となった。(現地案内板より)
2つの川に挟まれた山に位置する。
まず登ると尾崎丸で尾根上に曲輪が続く。三の丸の空堀と虎口はよく残る(最左画像)。
本丸手前の姫の丸の北側斜面には意図的に壊された石塁が残る(最右画像)。
本丸は土塁状の櫓台が残り石塁で下部が補強されている(左3画像)。
さらに本丸の背後には空堀があり、登り斜面となる。
そこを上がると御笠丸と呼ばれる、本丸のような曲輪が残り(左4画像)、
土塁状の櫓台がある。その背後には、土橋と空堀(左5画像)や井戸、武者溜りが残る。
それより先は遺構はなかった。
大江氏を祖とする毛利氏の分家で、6代広世が中郡庄福原村を領し、
この地に移住し、福原と名乗った。永徳元年(1381)に築城した。
広俊の娘が毛利弘元に嫁ぎ、長男興元、
そして明応6年(1497)3月14日、この城で元就は誕生したという。
慶長5年(1600)関ケ原後、防長に転封となった毛利氏に従い、廃城となった。
(現地案内板より)
標高316mの山頂を中心に可愛川に向けて北東の方へ郭は展開する。
北側には井戸が、東側斜面には居館跡(土居の檀・最左画像)が残る。
また、本丸から南へ下った尾根沿いには堀切が残る(最右画像)。
大内氏家臣堀江甲本が築城した。が、祟りがあるので廃城となった。
その後、毛利氏家臣関弥右衛門が入った。
現在は埃ノ宮神社となり、帯郭らしい跡が残るだけである。
可愛川を臨む地である。
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