室町時代初期、康永元年(1342)に南朝方の重要拠点となった。
が、北朝方の攻撃に遭い落城した。その際に落城で討死した、
桑原一族の墓が残る。
その後、足利直義の養子直冬(尊氏庶子)が在城したという。
さらに天正元年(1573)足利義昭が鞆へ逃れて来た際に、
村上亮康が在城していた。
現在は円福寺となり、遺構は残っていない。
また当時は島であったが、江戸時代には埋めたてられ、
陸繋島となっている。
天正年間(1573〜1592)に毛利氏が足利義昭を迎え、築城した。
関ケ原の戦い(慶長5年)の後、安芸に入った福島正則により、
大崎玄蕃が城主となったが、一国一城令により廃城となった。
廃城となってかなり石塁も毀されたようだが、復元されている(左画像)。
その石には刻印入りの物もある。
全体的に公園化されていて遺構は余り残っていない。
南側に発掘された石塁が残っている(右画像)。
宮氏の分家、有地氏の居城で、尼子方の本家宮氏と袂を別ち、
毛利方に属し、本家宮氏を滅ぼし、その跡を襲った。
3代元盛の頃に築城された。その後、毛利氏の直轄の城であったが、
天正16年(1588)秀吉の「諸国山城御停止」の命により、
廃城となった。(現地案内板によると関ケ原の後廃城とある)
標高191mの山頂にTVの電波塔があり、興を削がれる。
東西に展開する郭群からなり、石塁が残る。
和智氏の本城。室町時代初期応安年間(1368-75)資実の時に築城されたようである。
山名氏に属したが、応仁の乱後は、尼子氏と毛利氏の狭間に位置し、
一時尼子氏に属する時期もあったが、毛利氏に属していた。
永禄6年(1563)和智誠春と弟湯谷豊の宴に招いた毛利隆元が翌日死亡したことで、
謀殺の嫌疑を受け、同12年厳島において毛利元就により幽閉され殺害された。
誠春の子、元郷は起請文を出し、死を免れたが廃城となった。
標高340mの南天山山頂を中心に北側の尾根にかけて郭が展開される。
また北東には馬洗川が流れ天然の堀となっている。
第2次大戦の頃に畑として開墾され、礎石などが撤去されたという(現地案内板)。
本丸は針葉樹林で最高部は土塁状(櫓跡)になっている。
その裏手に竪堀などあったようであるが、倒木など多く、
歩く気にならず見逃してしまった。
尾崎神社から本丸への尾根上に郭や土塁が続く。
大手口はその尾根よりも西側の谷にあったようであるが、
よく分らなかった。本丸手前には大井戸と竪堀が残っている。
観応年間(1350〜52)に知波夜比古神社の社司祝氏が築城したと推測される。
天文20年(1551)江田氏が大内氏から尼子氏に寝返ったために、
祝甲斐守・長門守は750人の総勢で江田氏の支城である当城に立て籠った。
これに対し、毛利勢6千余騎で囲み、7月23日落城させた。
現在も知波夜比古神社が鎮座し、土塁と水堀が残っている。
また神社を含め住宅地一帯は微高地で城域だったと推測される。
当時は3重の堀と土塁で囲まれていたという。
(現地案内板・大系より)
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