鎌倉時代、厳島神社の社家、藤原氏の居城。
その後、戦国期に、武田氏と大内氏の間で翻弄され、興藤の時に滅亡する。
毛利元就の厳島の合戦で拠点として有名である。
関ケ原の合戦後、廃城となった。
現在は、桂公園となり、完全に市街地化され、かつての面影を偲ぶ由もない。
因みに、桂元澄の子孫である桂太郎がここを寄付されたとか。
関ケ原後に、広島入りした福島正則の甥福島伯耆が小方の領主として入り、
築城にとりかかるも、完成1年前に亡くなり、山田小右衛門、森佐助が入った。
が、完成3年後に幕府の監視を恐れ、廃城となった。
現在は亀居公園となっているものの、石垣などの保存状況も良い。
石垣の中には、運ぶ際に、一旦、海に沈めていたことを示す、
牡蛎の殻の付着した物もある(左から3番目の画像)。
建武2年(1335)に備後国守護の朝山景遠が築城したという。
その後、仁木、細川、高、上杉、渋川、山名氏が守護職で城主であった。
さらに、杉原、平賀、杉原、藤井、毛利と城主は替わった。
江戸期に入ると、福島正澄、水野勝成が城主となり、
元和5年(1619)福山城築城のために廃城となった。
現在は神辺駅からすぐの所にある。
城址は曲輪など草が刈ってあり整備されてある。
が、駅から直接登る道は途中までこそ普通に歩けるが、
中腹まで行った所で身の丈程の薮となり祈念塔まで出るのに苦労を強いられた。
少なくとも夏期は、裏からの車道伝いに資料館へ行く道を行くべきであろう。
土肥実平が元暦元年(1184)備前・備中・備後の惣追補使となり、
4代目茂平の時に下向して来た。以後、沼田小早川氏の本拠地となった。
庶流の竹原小早川氏と骨肉を争ったが、
天文19年(1550)竹原小早川隆景が惣領家である沼田小早川氏を嗣ぎ、
翌年高山城に入った。
天文21年(1552)本拠地を沼田川の対岸新高山に移し、廃城となった。
現在、本郷駅から住宅地を抜けて行く道に従えば南側の曲輪に出る。
南側にはイワオ丸やその他曲輪が残っている。
北側には、それ以上に見るべき遺構があったようだが、
薮化しかけていたのと、炎天下の新高山城の後の疲労で、
見ることは出来なかった。
やや観光化されている新高山に比べて捨てられた印象がある。
昨年のリベンジを果たしに北側の曲輪へ。
かなり下り、登りかけの場所に石塁がある。
南側に比べ、曲輪の残存状況が良好である。
沼田小早川を嗣いだ隆景が天文21年(1552)、
沼田川の対岸にある高山城から本拠を移した。
その後、三原城
へ移るまで小早川氏の本城であった。
三原城改修にためにかなり移築したというが、
現在でも石垣など遺構はよく残っている大規模な城址である。
本丸から下って南に離れた位置に鐘の段と呼ばれる曲輪があり、
やや独立した砦で尾根続きの北側にも堀切(左3画像)がある点や、
形式からも隆景以前の物であるとされる。
麓から登って行くと、東側に番所跡で3段くらいの土塁で囲まれた曲輪が続く
(左端画像)。
さらに登るとかなりの広い平坦地である菩提寺匡真寺の跡が残る。
ここから少し登ると中の丸と本丸の間に出る。
本丸の東側には今でも石垣が転がっている(右端画像)。
本丸の天守台跡の辺りは巨岩ばかりで、
ここに建物があったのか疑問に思えた。
本丸北側に大手門跡があるが薮化してよく分らなかった。
北側に下ると、釣井の段で今も井戸が6つ残る。
また中の丸から西側には三の丸が残っている。
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