長野業尚が築城した。天文20年(1551)上杉憲政が越後へ逃げ、その後、北条氏と武田氏の
侵略を受けるようになった。小幡重定親子が武田氏に寝返ると、業政は重定親子を追い落とし、
小幡景定を国峯城に入れた。弘治3年(1557)武田信玄が北条氏と協定を結び、
関東に進出するようになった。
そして、永禄9年(1566)武田信玄は2万の軍勢で攻め寄せ、9月29日業盛は御前郭で自刃し落城した。
その後内藤昌豊が入った。信玄の死後、天正3年(1575)長篠で昌豊が討ち死にすると、
昌月が城主となったが、天正10年(1582)武田氏の滅亡の直前に北条氏邦が進駐、
さらに滝川一益が入るも神流川金窪原の戦いに敗れ畿内に逃げ、氏邦が再び入った。
天正18年(1590)豊臣勢の前に一戦も交えずに4月24日開城した。
その後、井伊直政が12万石で入り、8年間在城し、慶長3年(1598)に高崎に移って廃城となった。
(大系より)
現在残っているのは、北条氏邦時代と井伊時代の物である。
本丸とその北側にある御前郭を中心に巨大な空堀で囲まれた、
近世城郭で、本丸と御前郭の西側に北条氏の城としては珍しく石垣が使用されている(下段右2画像)。
橋の土台であったらしい。また、大手口だった虎韜門口から入った鍛冶郭にも数か所石塁が残っている。
本丸のあるエリアと南側のエリアは非常に大堀切で区切られており(下段最右端画像)、
最近木を薙ぎ払ったそうであるが、重機がその際に畝まで削ってしまったとのことである。
永禄9年(1566)箕輪城を落城させた武田信玄が内藤昌豊を城代とした後、
昌豊はここに築城し、在城した。
長篠の戦いで昌豊が戦死後は、子の大和守昌月が城主となったが、
天正7年(1589)7月11日厩橋堀回りの城主中川武蔵守に攻められ、
善竜寺で自刃したという。(大系より)
現在は住宅地化されてしまい、櫓台として使用されたという古墳である、
天子塚古墳が残り、上部には多数の石碑がある。
箕輪初心さんに連れて行っていただいた。
長野氏の館で、箕輪城に移った後は、支城となり、
浜川六郎がいたという。
北条氏時代に長野出羽守業忠(浜川幽喜斎)がここに復帰して館主であったか。
(大系より)
住宅地化しているが、南側にある空堀は畑となっているが歴然としている(左画像)。
また北側も川が流れ、土塁らしい跡も残っている(右画像)。
こちらも箕輪初心さんに連れて行っていただいた。
新波新左衛門が在住した。(大系より)
すぐ横に満勝寺砦跡の土塁と空堀が一部残っている。
方形館の跡が綺麗に残されている。
南北に約75m、東西に約75m、南側に出枡状の突出部がある。
箕輪城の南側にはここ以外にも多くの城塞があったようである。
こちらも箕輪初心さんに連れて行っていただいた。
天正18年(1590)芦田(松平・依田)康寛(康貞)が3万石で入り、翌年築城を終え入城した。
慶長5年(1600)改易となり廃城になった。(大系より)
現在、小学校となり、土塁がその北側に残るだけで、
堀も埋められてしまったようである。
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