沼田景久の三男名胡桃三郎景冬が築城し城主となった。
その後、鈴木主水正重則が城主となり、真田方の城として、
北条方の沼田城に対する役割を帯びていた。
天正17年(1589)秀吉の斡旋で沼田一帯が北条氏の領地となった際に、
なぜかこの名胡桃城のみ真田氏の城として残った。
が、北条氏家臣猪俣邦憲が攻め込み、鈴木主水正が討死し、
落城した。これに怒った秀吉はついに小田原攻めを決意した。
河岸段丘の崖を利用した城址である。
本郭、二郭、三郭、般若郭、ささ郭、さらに道路を挟んで外郭(右端画像)が、
残っている。本郭とささく郭(中央画像)、本郭と二郭、二郭と三郭の間(左端画像)は、
空堀で断ち切られている。道路からすぐに馬出跡があるが、よく分らなかった。
比較的広い平坦地となっている、般若郭が平時の住居跡であり、
本丸跡には徳富蘇峰による石碑が立っている。
ささ郭には土塁も残り、石塁も発掘されたとのことである。
明応元年(1492)沼田景久が築城し、次男二郎景秋が城主となった。
その後、2代目景祐は素行優れぬ城主だったようで、
すったもんだの挙句に弟秀泰(康)が城主となり落ち着いた。
その子景奥の時に北条氏の侵攻に遭い、小川氏は絶えた。
赤松則村の末裔と称する浪人赤松祐正が小川氏を嗣ぎ、
小川可遊斎と名乗った。
可遊斎は幾度か北条氏を退けたが、北条氏邦に数倍の兵力で攻め込まれ、
越後へ逃げた。
その後、北能登守が城代となった。
天正17年(1589)秀吉の斡旋で北条氏の城となったが、
北条氏滅亡後、真田氏の物となった。
江戸時代に入り、真田信利が5代沼田城主を嗣ぐまでここに在住した。
河岸段丘の先端を利用した城址である。
現在、二の丸を南北に道路が縦断して遺構が若干損なわれている。
それでも本丸とその先端にあるささ郭は残っており、
本丸前の空堀は深い(左端画像)。
本丸内に土塁の続きに、石塁が残っているが(右端画像)、
当時の物であろうか。
永禄初期(1560年頃)に築城されたと推測される。
諏訪城が当城であるならば築城時期はそれ以前となる。
安中忠政が城主であった。武田信玄の執拗な侵攻の前にも堪えていたが、
永禄5年(1562)安中城主安中忠成は開城降伏したが、
父親の忠政は防戦奮闘したが力尽き、開城、自刃させられた。
信玄は市川国貞を城代とした。
武田氏滅亡後、滝川一益の持城となったが、本能寺の変後、
伊勢に帰った後、北条氏の居城となり、大道寺政繁が入った。
天正17年(1589)秀吉の小田原攻めにより、碓井峠を境に真田勢と攻防があり、
翌年、前田利家らにより開城に至った。
松井田城は、安中忠政時代の遺構と大道寺政繁時代の遺構がある。
北側を走る、碓井道・東山道の方に向けて大手口があり、
北側の数条の尾根沿いに曲輪が続く、
堀切数48、郭数52という大規模な城址である。
安中時代の城は東側に位置し、
痩せた尾根に浅い堀切を設けた(右端画像)、
さほど規模の大きい城ではなかったように見える。
一方、大道寺時代の遺構は、北条氏の城に見られる、
大味な作りである。
西側の二の丸、本丸の一城別郭の形をとり、その間の空堀から下ると、
大手門があり(左2画像)、さらに下ると、堀切で区分けされた郭を経て、
竪堀群のある郭に至る。
二の丸の西側には連続竪堀が残る(左端画像)。
ここまでの間は、崖崩れがあって行きにくい感がある。
本丸には虚空蔵山となっていて社があり、やや薮化している。
その東側には、大道寺政繁記念碑がある安中郭があるが、
その下側には枡形虎口、さらに直線の空堀(左3画像)、
さらにS字の空堀が残る(左4画像)。
この空堀跡から西へと下って行くと、
竪堀が数条あるのが見渡せ、水門跡がある。
さらに下って行くと、大手口への道と合流する。
基本的に安中時代の遺構は落葉樹か松で明るく、
大道寺時代の遺構は杉の植林地帯となっている。
大道寺時代の遺構を見た後、安中時代の遺構を見ると頼りなげに見える。
文殊寺の砦と別郭一城であったのを、
永禄年間、もしくは天正年間に再築城されたと推測される。
碓井川の南側に位置する小山で、遠くからでも目立つ場所にある。
城址はコンパクトによく残っている。
山頂を中心に周りに帯曲輪を展開し、南側に大手がある。
竪堀(右端画像)や空堀(左端画像)もよく残っており、
本丸と二の丸は土塁と空堀で分けられている(中央画像)。
それより下った所に三の丸があるが、斜めに傾いた地形となっている。
築城年代、築城者は分らない。
碓井川の北側に位置し、現在本丸は稲荷神社となっている。
本丸の北側、西側に土塁が残る。さらに土塁の北側には空堀も残る。
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