井伊直政が箕輪城から平野である高崎に城を移した。
倉賀野氏の居城。秀吉の関東征伐の際に落城。
もともとは長野氏の厩橋城。北条氏と上杉氏と武田氏の拮抗点となり、
常に戦乱にまきこまれた。
徳川時代は、平岩氏の城となり、江戸期に入ると、酒井氏の居城となった。
その後、川越に藩が移るまどの紆余曲折を経て、幕末を迎えた。
沼田顕泰により天文年間(1532〜55)に築城されたという。
沼田氏は北条氏に従うこととなったが、
上杉政虎が関東に出て来ると、今度は上杉氏に従うことになった。
その後、沼田氏は没落し会津に落ちた。
それ以後沼田城は上杉、北条、真田氏の衝突する所となった。
謙信死後、城代の藤田信吉は勝手に真田昌幸に城を渡した。
流浪していた沼田景義が奪回を試みたが失敗した。
その後、真田昌幸は叔父の矢沢頼綱を城代に据えた。
度々北条氏に攻め込まれたが持ちこたえ、
天正17年(1589)秀吉の斡旋で北条氏家臣猪俣邦憲が城代となった。
翌年北条氏が滅亡すると、真田信幸(後、信之)が入った。
関ケ原後、信之は上田に移り、信吉に譲った。
5代目信澄の時、改易となった。
その後、破却され、元禄16年(1703)本多氏、翌年黒田氏、
寛保2年(1742)土岐氏が入り、明治維新を迎えた。
現在、公園化され、石塁や土塁が一部残っている。
本丸、捨郭の辺りは郭の構造がよく分る。
沼田駅からは河岸段丘の跡なのか台地上にあり堅固であったことが想像される。
元々沼田氏が芦名氏の侵攻に備えて築城した天神山砦があり、
名胡桃、小川城を足掛かりに攻め寄せて来た真田昌幸に対して、
沼田城代藤田能登守が築城させた。
天正8年(1580)真田勢に攻められ、沼田へ逃げ、真田氏の持城となり、
城代が置かれ補強された。
天正17年(1589)秀吉の斡旋で北条氏の持城となったが、
翌年北条が滅亡すると再び真田氏の所領となり、廃城となった。
現在、説明板のある所に虎口があり、
すぐ2重の土塁(右画像)と空堀がある。
空堀は竹薮となっている(左画像)。
城内は果樹園となっていて、周囲の土塁はよく残っている。
が、かなり薮も多く、意外に見られる所が少なかった。
河岸段丘だろうか、崖となった面を持った小高い山(丘?)の上にある。
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