宝治元年(1247)遠山左衛門尉景朝の子、明知三郎兵衛尉景重が築城したといわれる。
その後、南北朝の頃は北朝方に属した。
戦国時代に入り、遠山氏は武田信玄に従っていたが、
岩村城主の病死を機に織田信長に通じ、元亀3年(1572)11月高遠城主秋山晴近(信友)に岩村城を攻略させ、
翌月には明知城主の遠山景行、苗木城主遠山勘太郎らを破り、明知城も落城した。
その後、長篠の戦いで織田氏が勝利した後、織田信忠が岩村を攻め、明知城は岩村城と共に落城し、
城主だった遠山利景は家康の元へ逃れた。その後、本能寺の変の後に戻ったが、
兼山城主森長可の圧力が強まり、再び家康の元へ出奔した。
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの際に利景は明知城を奪回するも、
和議で森氏に渡した。
慶長5年(1600)2月田丸具安が岩村城主になると、原土佐守が明知城代となった。
関ヶ原の戦いの際に、遠山利景は明知城を奪取し、岩村城も開城させた。
元和元年(1615)の一国一城令で廃城となり、麓に陣屋が置かれ、明治維新まで遠山明知家が続いた。(大系より)
本郭を中心に北西の陣屋跡の方へに郭は伸びている。
本郭の周囲には横堀があり、そこから畝上竪堀が数条落ちている。
遺構は素晴らしいようなのだが、一度整備した後余り手が入っていないようで、
藪化している所が多かった。本郭の横堀と畝上竪堀を見るには草木を掻き分けなければならない。
文治・建久(1185〜1199)の頃、頼朝に仕え、美濃国守護となった土岐光衡とも、
また鎌倉末期の正中の変で活躍した土岐頼廉ともされるが、定かでない。
天正2年(1574)武田勢が明知城を包囲した際に、信長の命で小里城山城とともに本城を普請し、
川尻秀隆を定番としている。
また、天正10年(1582)甲斐侵攻の前に信長親子が宿泊している。
関ヶ原の戦いの際には、西軍に属していた。
廃城後、岩村藩の所領となり、陣屋が置かれ、明治維新を迎えた。
(岐阜の山城、大系より)
昭和48年の中央高速の工事で鶴の形をした両翼はもがれてしまっている。
千畳敷と呼ばれる、本郭を中心に左右に郭が展開される。尾根で繋がる背後には大きな堀切がある。
本郭の直下には葵の井戸と呼ばれる井戸の跡がある。
文治5年(1189)源光衡はここに館を構え、土岐氏を称した。
室町時代初期に、土岐頼貞は美濃国守護に任ぜられ、後に高田に移るまでここに居住した。(現地説明版より)
現在の八幡神社に、石碑や子孫に相当する明智光秀の銅像がある。
遺構らしいものはない。
すぐ北側は旧街道?が走っており、当時は屋敷などあったか。
当日はお祭りでごった返しており、落ち着いて撮影する余裕もなかった。
永禄の初めに秋山信友の武将仁木藤九郎が築城したというが定かでない。
(岐阜の山城より)
一乗院という寺院の裏山に位置する。
切岸など良く残っているが、基本的に放置されたまま残っている(左端画像)。
最後部の主郭の裏には深い堀切が残っている(右2画像)。
土岐源氏の一族、高山伊賀守秀頼が承久の乱(1221年)頃に築城したと考えられている。
弘治2年(1556)高山伊賀守光俊没後、武田信玄の命で、
平井光行、頼母親子が兵を進め、城主となった。
その後、武田方に光行を殺され、織田方に属した。
天正10年(1582)本能寺の変の翌年、兼山の森長可に開城を迫られ、
天正13年(1585)頼母は亡くなった。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの際には、岩村城主の田丸直昌の支城となったが、
徳川方の妻木勢に攻められ、妻木氏の支城となった。
万治2年(1659)妻木家が御家断絶となり天領となった。(現地観光用資料から)
水道貯水池が作られたせいで、遺構らしいものは残っていない。
三つの郭から構成されていたようで、現在小さな案内用の石碑が幾つかある。
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