足利尊氏に追われた佐竹義春が築城したという。
戦国時代には浜六兵衛や杉山内蔵助がいたと伝わる。
(現地案内板より)
関ケ原の大谷吉継陣から北西にある城山にある。
夏場で薮が繁茂していたせいか、遺構はさっぱり分らなかった。
元亀元年(1570)浅井長政が対織田勢のために、
長亭軒之城を構え、樋口直房を入れ、その後、織田家臣不破光治が入ったというが、
長亭軒之城が当城なのか不明となっている。
慶長5年(1600)8月10日に大垣城に入った、
石田三成が大垣城主伊藤盛正に築城させたが、
関ケ原の戦い前日の14日に小早川秀秋が盛正を追いはらって入城したらしい。
(『岐阜の山城』より)
松尾山山頂に広大な城域が残る。
山頂部の主郭は土塁に囲まれ、関ケ原とは反対側に内枡形の虎口が残り(左端画像)、
下った所にある現在トイレにある郭へと繋がる(右端画像)。
主郭の東側の小さい尾根上にも削平した郭、
登山口のある麓からの道へ下る脇の尾根にも郭が残る。
西側は森林で鬱蒼としているが、
広々とした北側に土塁など遺構のある堀底状の谷を挟んで、
反対側の尾根上にも広い郭が残る(中央画像)。
その南方にも堀切を挟んで郭があったようだが確認しなかった。
遠山左近佐直廉が天文元年(1532)頃築城した。
直廉は信長の妹を娶り、終始織田方であった。(現地資料では武田方と)
元亀元年(1570 or 72?)に威徳寺合戦後に直廉が没し、城主は飯羽間城主遠山友勝の子、久兵衛尉知忠が継いだ。
(現地資料ではその父友勝から城主)
元亀3年(1572)に秋山晴近(信友)が飯羽間、岩村の両城を落城させたが、
苗木城は持ちこたえた。
本能寺の変後は、天正11年(1583)に兼山城主の森長可と争い、出奔し、家康を頼った。
森長可の持ち城となり、弟の忠政の時、関治兵衛が城代となり、その後森氏が転封となり、川尻直次が城主となった。
関ヶ原の戦いの際に、友忠・友政親子は苗木城を奪還し、以後明治維新まで続いた。(大系より)
北門から入ると、すぐ大手道と合流し、風吹門(左2画像)があり、左側に大矢倉(左端画像)があり圧巻である。
やや広い三の丸は以前は堀切があり、江戸期に埋められたと推測されている。
大門には巨大な石があり(左3画像)、九十九折の道を登ると本丸に達する。
本丸には天守跡があり、当時の柱の位置を再現した展望台が立っている(左5画像)。
本丸から東から南にかけて廻ると、不明門や屋敷の跡の石垣が残っている。
百名城でもないのに観光客が結構いて驚かされた。
築城時期は戦国時代末期と推定されているものの、築城者も含めて分かっていない。
遺構状態や整備状態は素晴らしい。
最後部に円形の主郭があり(最左画像)、特に土塁などはなく、南側に大手虎口(左2画像)、北側に搦め手虎口がある。
腰郭が主郭を囲繞し、南へ数段郭が続く。
比較的高低差のない東と西への尾根にはしっかり堀切がある(左4,5画像)。
源頼朝の家臣、加藤次景廉が文治元年(1185)に築城したという。 元亀3年(1572)遠山景任が没した後、信長の六男御坊丸を養子にして家督を相続させたが、 信長の叔母で景任の妻のおつやの方が城主になった。 その後、武田の秋山晴近(信友・虎繁)が攻め、おつやと婚約し、武田方の城となった。 天正3年(1575)長篠で武田方が大敗した後、 織田信忠軍が攻め、落城させた。天正10年(1582)まで川尻鎮吉(秀隆)が城主となり、 武田氏滅亡後に鎮吉が甲斐に移ると、森蘭丸が城主となり、 家老の各務兵庫が城代となった。 本能寺の変で蘭丸亡き後は、兄の長可の領地となった。 長可の討ち死の後は忠政の領地となった。 慶長5年(1600)田丸具安が転封して入り、同年の関ヶ原の戦いで西軍に属したために除封され、 松平(大給)家乗が入り、子の乗寿は寛永15年(1638)浜松に転封となり、 三河伊保から丹羽氏信が入り、元禄15年(1702)氏音が越中頸城郡内に転封となり、 小諸から松平(大給石川)乗紀が入り、明治維新まで続いた。(大系より)
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