土岐成頼の4男元頼を祖とする、小里光忠が3千6百石で領した。
光忠により天文元年(1532)築城したとも天正2年(1574)に光久の後見人光明による(大系)ともある。
元亀3年(1572)信玄の西上に伴い、秋山信友が岩村城を落城させ、明智城、苗木城の両遠山氏などと合戦した際に、
光忠、光次は遠山氏に従軍したが、光次は討ち死にした。
天正2年に武田勝頼が明智城を攻撃した際に織田信長が小里城と神箆城(鶴ヶ城)の改修を命じ、
池田恒興が小里城に入った。
天正11年(1583)織田信孝に従ったが、自刃した後に秀吉からの和を拒み、家康の元に奔った。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの際に光明・光親は岩村城奪回にの戦功をあげ、旧領3千580石を給わった。
元和元年(1623)光親の子、光重の代で嗣子断然し、小里本家は断絶した。(大系・現地説明板より)
麓に石垣を伴った御殿場跡があり、東側の別尾根に東砦があり、尾根を登ると、堀切が残る。
御殿場跡から山頂へ大手道を登っていくと、石塁のある天守台に至る。
主郭は帯郭を持ち、石塁など残っている。
岩村の遠山氏が伊那路・木曽路・美濃路の押さえとして重要な城で、
阿寺城とここの2つが本城であったという。(現地説明板より)
本城であったという割には、規模は小さく、今は祠がある小山が残るくらいで、
これといった遺構はないようだ。
天正12年(1584)3月、小牧・長久手の戦いの際に秀吉が木曽義昌に木曽路防衛を命じ、
島崎重通が整備した。9月に菅沼定利・保科正直・諏訪頼忠は妻籠城を攻め、
一部が馬籠に侵入した。島崎重通は夜陰に紛れて妻籠城へ逃れた。(現地説明板より)
小高い丘に竹薮があるくらいで遺構らしいものは残っておらず規模は小さい。
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