永禄元年(1558)竹中重元が岩手に移った際に、竹中源助が築城した。
秀吉に功を認められ、豊後高田に移り、
武光式部が5千石で城主となった。が、関ケ原の戦いでは、
西軍に属し、8月28日に桑名方面に逃げ、その後、一柳監物が入城したが、戦後廃城となった。
(現地案内板より)
現在は小学校、住宅地となり、その面影はない。
慶長9年(1604)から翌年にかけて高須藩主徳永寿昌の家来安部孫兵衛が普請奉行となり、
築いた。京と江戸を往還するときの将軍専用の宿泊施設で、早くも寛永5年(1628)には、
幕府領となり大半の建物は取り壊されたという。(『岐阜の山城』より)
現在は、西半分が中学校となっているが、東部分が残っている。
空堀と土塁が周囲を囲んで、中は牡丹園となっている。
平塚為広が1万2千石で城主であった。
現在は、垂井泉がある、専精寺が城址推定地となっている。
遺構は残っていない。
毛利秀元が慶長5年(1600)9月7日に布陣した。
9月15日の関ケ原の戦いまで7日しかなく、
遺構は山頂部である主郭の東西に1箇所ずつ堀切があり(画像)、
主郭の西部にうっすら土塁が残る。
天文13年(1544)の土岐頼芸の岩手四郎宛ての書状に出て来ている。
その後、竹中重元が岩手氏を滅ぼし、築城(改修?)した。
竹中重治(半兵衛)の嫡男重門の時に、麓の岩手に館を構えた。
その後も、館は陣屋となり。明治維新まで13代続いた。
白山神社の裏手から登山道があり、しばらく登って行くと、斜面に堀切があり(上左端画像)、そこから城域となる。
そのまま登ると本曲輪のある北西部と南西部の間に出る。
北東部へ少し登ると、虎口を経て、空堀があり細い土橋が左側にある(上左2、3画像)。
その先が本曲輪であったようで、現在案内板や望遠鏡がある。
空堀の反対側の曲輪はやや薮化していた。
本曲輪の下の北西方向にも曲輪があり、虎口に入る手前を下る。
が、道がやや崩れている。こちらの曲輪はそのまま植林されたようで構造がよく分る。
登山道の分岐に戻り、南西の曲輪へ行くと、1本大きな堀切があり、その先の曲輪の先には、
竪堀と大きな堀切がある(上右端画像)。
麓には竹中陣屋があり、水堀と門が残っている。半兵衛の銅像も脇にある。
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