陸奥(福島)6



大鳥城高舘古舘梁川城高子岡城

大鳥城

福島市【最寄り駅】福島交通飯坂温泉駅

保元2年(1157)信夫庄司佐藤元(基)治が築城したという。 文治5年(1189)源頼朝が平泉の藤原氏に対し大軍を送った際に、 元治らは石那坂・阿津賀志山で対峙するも敗死し、8月13日に落城した。 その後は、長男の隆治が居住した。(大系・現地案内板より)
現在は、舘ノ山公園となり、やや公園化されてしまっている感がある。 麓から四ノ砦から一ノ砦まで曲輪らしい平坦地が残り(最左画像)、最高所に広い本曲輪がある(左2画像)。 本曲輪の横には堀切を挟んで(最右画像)矢庫の跡という西側に土塁が残る曲輪がある(左3画像)。 また東西に水の手が残る。 10月末の日没前で、麓で熊が出るよと警告を受けた後であったので、びびってしまい、 熊鈴はつけていたものの、行動範囲が狭くなっってしまった。


高舘

福島市【最寄り駅】福島交通飯坂温泉駅

治承年間(1177〜81)、佐藤七郎前信の居館であった。(大系より)
現在、蚕糸試験場跡地で遺構は何もないが、 亘理十郎清綱の娘で、大鳥城主庄司佐藤基治の妻となり、 嗣信、忠信の母親である乙和姫が長男前信の館内にお稲荷様を祀った、 乙和稲荷神社が銀杏の木とともに残っている。(現地案内板より)


古舘(飯坂城)

福島市【最寄り駅】福島交通飯坂温泉駅

永禄年間(1558〜70)伊逹氏家臣の飯坂右近将監宗康が築城したという。 宗康は天正17年(1589)に亡くなり、その娘飯坂局が伊逹政宗に従って米沢に移るまで居住した。 現地案内板によれば、文治5年(1189)伊逹朝宗の4男四郎為家が築城したという。 4代伊賀守政信の時に飯坂氏を名乗っている。 (大系・現地案内板より)
現在は古舘公園となり遺構はない。やや高台となっている。


梁川城

伊逹市(旧梁川町)【最寄り駅】阿武隈急行梁川・やながわ希望の森公園前駅

発掘品により伊逹氏3代義広か4代政依が築城したと推測されている。 大永3年(1523)14代稙宗が奥州守護に補任され、中心城郭となったが、 天文元年(1532)桑折西山城に西館を築き、本拠を移した。 同22年(1553)頃晴宗の弟宗清が天正19年まで城主だった。 秀吉の奥州仕置により、蒲生領となると蒲生喜内が城代となった。 慶長3年(1598)上杉領となると、須田大炊助長義が城代となった。 同5年(1600)6月23日伊逹成実ら7千騎に攻められるも撃退、 さらに10月5日政宗は徳川家康との密約で上杉領へ侵入し、 連戦連勝で福島城を俯瞰できる信夫山に陣を布いた。 ここで須田長義は後方から襲撃し、殿軍、小荷駄隊を全滅させ、政宗は慌て北目城へ逃げ帰った。 寛文4年(1664)上杉綱勝が急死、家督をなんとか綱憲に継がせ、15万石に削封され、幕府領となり、 廃城になった。 以後、本多領、松平領、白河領、平領、と幕領なったりで、文化4年(1807)に松前領となり、 一度幕領となるも再び安政2年(1855)松前領となり明治維新を迎えた。 (ふくしまの城・大系より)
現在、中心部分は幼稚園、小中高校となっており、小学校の脇に本丸石垣と庭園跡である心字池(左2画像)が復元されている。 南側に廣瀬川があり、高校の脇に5mほどの高さの土塁が残る(最左画像)。 一方、北側には三の丸の土の巨大な枡形が残り(左3画像)、土塁の北側には今も水掘が残っている(最右画像)。


高子岡城

伊逹市(旧保原町)【最寄り駅】阿武隈急行高子駅

伊逹家の始祖、伊逹朝宗(中村入道念西)の居城と伝わる。 文治5年(1189)源頼朝方として、阿津賀志山(厚樫山)の合戦等で功をあげ、 伊逹郡を賜った。今も山上に鎮座する八幡宮は鶴岡八幡宮を勧請したものという。 (現地案内板より)
高子駅の北西にある小高い丘が城址で(左画像)、 山頂直下に八幡宮があり、山頂部には巨岩があり、展望がすこぶる良い(右画像)。 麓は住宅と畑となっており、遺構らしいものはなく、当時も館があったくらいだったか。



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