保元2年(1157)信夫庄司佐藤元(基)治が築城したという。
文治5年(1189)源頼朝が平泉の藤原氏に対し大軍を送った際に、
元治らは石那坂・阿津賀志山で対峙するも敗死し、8月13日に落城した。
その後は、長男の隆治が居住した。(大系・現地案内板より)
現在は、舘ノ山公園となり、やや公園化されてしまっている感がある。
麓から四ノ砦から一ノ砦まで曲輪らしい平坦地が残り(最左画像)、最高所に広い本曲輪がある(左2画像)。
本曲輪の横には堀切を挟んで(最右画像)矢庫の跡という西側に土塁が残る曲輪がある(左3画像)。
また東西に水の手が残る。
10月末の日没前で、麓で熊が出るよと警告を受けた後であったので、びびってしまい、
熊鈴はつけていたものの、行動範囲が狭くなっってしまった。
治承年間(1177〜81)、佐藤七郎前信の居館であった。(大系より)
現在、蚕糸試験場跡地で遺構は何もないが、
亘理十郎清綱の娘で、大鳥城主庄司佐藤基治の妻となり、
嗣信、忠信の母親である乙和姫が長男前信の館内にお稲荷様を祀った、
乙和稲荷神社が銀杏の木とともに残っている。(現地案内板より)
永禄年間(1558〜70)伊逹氏家臣の飯坂右近将監宗康が築城したという。
宗康は天正17年(1589)に亡くなり、その娘飯坂局が伊逹政宗に従って米沢に移るまで居住した。
現地案内板によれば、文治5年(1189)伊逹朝宗の4男四郎為家が築城したという。
4代伊賀守政信の時に飯坂氏を名乗っている。
(大系・現地案内板より)
現在は古舘公園となり遺構はない。やや高台となっている。
発掘品により伊逹氏3代義広か4代政依が築城したと推測されている。
大永3年(1523)14代稙宗が奥州守護に補任され、中心城郭となったが、
天文元年(1532)桑折西山城に西館を築き、本拠を移した。
同22年(1553)頃晴宗の弟宗清が天正19年まで城主だった。
秀吉の奥州仕置により、蒲生領となると蒲生喜内が城代となった。
慶長3年(1598)上杉領となると、須田大炊助長義が城代となった。
同5年(1600)6月23日伊逹成実ら7千騎に攻められるも撃退、
さらに10月5日政宗は徳川家康との密約で上杉領へ侵入し、
連戦連勝で福島城を俯瞰できる信夫山に陣を布いた。
ここで須田長義は後方から襲撃し、殿軍、小荷駄隊を全滅させ、政宗は慌て北目城へ逃げ帰った。
寛文4年(1664)上杉綱勝が急死、家督をなんとか綱憲に継がせ、15万石に削封され、幕府領となり、
廃城になった。
以後、本多領、松平領、白河領、平領、と幕領なったりで、文化4年(1807)に松前領となり、
一度幕領となるも再び安政2年(1855)松前領となり明治維新を迎えた。
(ふくしまの城・大系より)
現在、中心部分は幼稚園、小中高校となっており、小学校の脇に本丸石垣と庭園跡である心字池(左2画像)が復元されている。
南側に廣瀬川があり、高校の脇に5mほどの高さの土塁が残る(最左画像)。
一方、北側には三の丸の土の巨大な枡形が残り(左3画像)、土塁の北側には今も水掘が残っている(最右画像)。
伊逹家の始祖、伊逹朝宗(中村入道念西)の居城と伝わる。
文治5年(1189)源頼朝方として、阿津賀志山(厚樫山)の合戦等で功をあげ、
伊逹郡を賜った。今も山上に鎮座する八幡宮は鶴岡八幡宮を勧請したものという。
(現地案内板より)
高子駅の北西にある小高い丘が城址で(左画像)、
山頂直下に八幡宮があり、山頂部には巨岩があり、展望がすこぶる良い(右画像)。
麓は住宅と畑となっており、遺構らしいものはなく、当時も館があったくらいだったか。
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