鎌倉時代後期に築城されたと推定される。
須賀川城に移るまで須賀川二階堂氏の居城であった。
以後、一族守谷氏の城となった。
守谷氏は天正17年(1589)須賀川城が落城した際に伊達政宗に内応し、
落城後もここにいたが、伊達氏が会津を没収されると、
ここを去った。その後、廃城になったと見られる。
現在、翠ヶ丘公園の中の愛宕山が本丸で、
土塁に囲まれている。東側に下った辺りに空堀らしい跡が残る。
その他は公園化の際に消滅したようだ。
歴史民俗資料館、博物館のある辺りは、保土原館跡で石碑が立つ(右端画像)。
南北朝の頃に長沼氏により築城されたというが定かではない。
蘆名氏の領地となり、家臣の新国貞通が城主となった。
その後、佐竹氏、伊達氏、二階堂氏、田村氏の激戦区となった。
天正17年(1589)蘆名氏の滅亡後の翌年蒲生氏郷は蒲生郷安、その後、
蒲生郷貞を入れた。慶長3年(1598)上杉景勝が会津に入ると、
島津忠直が入った。関ケ原の戦いの際には前線基地となった。
その後、再び会津は蒲生領となり、蒲生郷治、玉井数馬介と続き、
元和元年(1615)廃城となった。(大系・現地案内板)
小学校の裏手、日高見山に残る。
現在小さな神社のある本丸を中心に郭が囲繞する。
本丸の裏手には石塁も残っている。
大系には縄張り図が記載されているが、
大手の方は植林された薄暗い森となって、やや荒れており、
確認しなかった。
また外堀と中堀も残っているようであるが確認していない。
八丁目城の支城。
現在は土合舘公園としてアジサイが植えられている。
それでも遺構はよく残っている。
駐車場の辺は空堀が残り(左画像)、
本丸と推定される神社には土塁があった。
応永21年(1414)畠山満泰により築城された。
9代に渡り、続いたが、義継が輝宗を拉致し、
義継が打ち取られた後、その子、義綱は政宗の攻撃に堪えかね、
会津に去った。その後、片倉小十郎が入り、そお後、伊達成実が入った。
天正18年(1590)蒲生氏郷が会津に入ると、蒲生郷成が入り、
その後町野重仍が入った。
慶長3年(1598)に上杉景勝が会津に入ると下条駿河守忠親が入った。
関ケ原の戦いの後、蒲生秀行が会津に入ると門屋助右衛門を西城(新城館)、
梅原弥左衛門を東城(松森館)に入れた。
寛永4年(1627)蒲生氏が改易となり、
松下石見守重綱が入り、その後、加藤嘉明の2男明利が入った。
その後、加藤氏が除封され、丹羽光重が入り、
正保3年(1646)に築城を開始し、慶安4年(1651)に完了した。
明治維新まで丹羽氏が続いた。
戊辰戦争の際に幕府方に立ち、
三春藩を先導にした西軍に攻められ、
12、3歳の少年兵達の激闘虚しく落城した。(大系より)
二本松駅方面からであると、大手門を通り、一山越え、下り、
郭内となり、御殿前の石垣に到達する。箕輪門を抜け、
麓には御殿跡があり、
中腹には土塁や堀切等残る。
山頂部は石垣が残る。
大内氏は石橋氏の臣下となり、ここに築城し、
旧領地の若狭国小浜の名をとって小浜城とした。
定綱の頃に、東安達地方の一大勢力までのし上がったが、
天正13年(1585)に伊達政宗に攻められ、二本松に逃げ、
蘆名氏に身を寄せた。
伊達領となると、白石若狭守が城代となった。
秀吉の奥州仕置の後、会津に入った蒲生氏郷の家臣蒲生右衛門が城代となり、
後に廃城となった。(大系より)
蒲生氏時代の石塁が本曲輪に残り(最左画像)、堀切が残る(右2画像)。
すぐ近くに片倉小十郎の館跡というわれる辺りに、
片倉のナシの木があり、空堀もその横に残っている(最右画像)。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。