文明年間に朝倉氏により築城されたという。
その後、前田利家が拡張した。その後、丹羽、木村、堀尾氏が入り、
江戸期に本多氏の居城となった。
現在の越前市庁舎(旧武生市庁舎)で、何も残っていない。
青木紀伊守重治の城。府中城主、本多富正により金剛院が再興された。
土塁の跡が残るらしいが、墓場にそれらしき物があるが、それと認識できなかった。
見逃したのだろうか。
南北朝の頃に北朝方である斯波高経が築城した。延元元年(1336)南朝方の瓜生保に落城されたが、
すぐに奪回したが、再び、新田義貞との戦いに敗れた後、新田軍に奪われた。
新田軍がいなくなった後、貞治5年(1366)に浄土宗の良如により、正覚寺が建立され今に至っている
現在、土塁だけが、境内の北部に残っている。
寿永2年(1183)に木曾義仲勢が陣を布いた。その後も、瓜生氏や一向一揆勢が拠った。
北陸街道の湯尾峠に位置するという点で重要な城であったようだ。
遺構は、峠から本丸にかけて急斜面でそれらしい気配があり、
本丸は細長い曲輪であったようだ。規模はさほど大きくないように思える。
木曾義仲が仁科守弘と齋明威儀師に築城させ籠らせたが、齋明威儀師が平家に内通し落城した。
その後、今庄入道浄慶が足利方として拠り、杣山城の瓜生氏に対抗した。
戦国期に下間頼照率いる一向一揆勢が籠ったが、信長軍に落城された。
現在でも石塁や堀切の跡が残っている。街道沿いの重要な位置を見下ろせる城で、
重要な拠点であったようだ。
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