文明年間に朝倉氏家臣疋壇対馬守久保により築城された。
元亀元年(1570)に信長軍により金ヶ崎城が落城した際に、ここも破壊された。
その後、再び朝倉氏の手により修復されたらしいが、再度の信長軍の侵攻に落城され、
城主疋壇氏も討死した。
現在は、畑となっているが、城台の跡ははっきり残っており、石塁や堀も残っている。
一乗谷に控える朝倉氏にとって、位置的に、重要な城であったようだ。
正保2年(1645)福井藩主松平忠昌の死去に伴い、次男の昌勝に5万石分封されて置かれた。
元禄6年(1693)昌勝の死後、昌平が継ぎ、享保6年(1721)福井藩主吉邦が死去し、昌平が宗昌と改めて本藩を継ぎ、
廃された。(大系より)
現在は、「お館の椿」と呼ばれる、昌勝が愛したといわれる椿が残るだけになった。
柴田勝安(勝成)が築城し、柴田氏滅亡後、成田重政、長谷川秀一が居城した。
慶長6年(1601)結城秀康の家臣、林長門守や矢野伝左衛門らが居城した。
元和元年(1615)一国一城令により破却された。
その後、元禄4年(1691)小笠原貞信が2万2777石で勝山藩が成立し、明治維新まで小笠原氏が続いた。(大系より)
昭和42年(1967)に市民会館建設のために天守台も削平されてしまい、石碑があるだけで何も残っていない。
九頭竜川の右岸、河岸段丘である七里壁を利用している。
養老元年(717)泰澄により平泉寺が開かれた。
戦国時代には48社、36堂と6千の坊院、寺領は7万石9万貫で僧兵は8千人を超えたという。
天正2年(1574)一向一揆の籠る村岡山を攻めた隙をつかれ、攻撃を受けて全山焼失した。(現地資料より)
菩提林の中に堀切が残るらしいが説明板もなく分からなかったが、平泉寺(明治39年復活)の手前に堀切のような跡はあった。
精進坂手前に土塁が残る。
南谷発掘地では坊院の門や塀が再現されており、内部は枡形の構造をしている。
また若宮神社のある石畳の手前には深い堀切が石塁を伴って残っている。
天正3年(1575)金森長近が戌山城に入った後に、亀山に新城を築いた。
長近が高山に移った後に、青木・織田氏の居城となった。
関ヶ原の戦い後に結城秀康家臣の土屋昌明に3万8千石で入り、
元和9年(1623)松平直政、寛永10年(1633)松平直基、正保元年(1644)直良といずれも秀康の子が入り、
天和元年(1682)土井利房が入り、土井氏が続いた。(大系より)
亀山の山頂に推定再建された天守閣が立つ。
金森長近により碁盤状の街区に整備された。
城下は武家屋敷、商家、そして外側に防御のために寺町として寺院が固められている。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。