二宮新助が築城した。(大系より)
果樹園となっており後世の改変もあったかと想像され、主郭は酷すぎる藪で敬遠せざるをえなかった。
付近に石垣が残っているが、日常的に使用するエリアなため、遺構なのかはっきりしない。
二宮新助が築城し、山崎城より移る。(大系より)
https://ehm-misaki-h.esnet.ed.jp/cms/uploads/h27Matumorijoato.pdf
に依れば、現在残る遺構は大友氏の影響があるとか。
入口から少し標高を稼ぐと、堀切が2本ある。
主郭側の堀切は、西側がそのまま竪掘となって落ちている。
また東側は道となっており、郭に繋がっており、途中には埋もれているようだが、畝状竪掘が残っている。
特に2本、岩盤も削った深い竪掘となっている。
主郭はやや藪化しているが、西側から南側にかけて土塁が残っている。
北側には虎口がある。
井上善兵衛重房が城主であった。重房は天正15年(1587)に亡くなった。(現地説明板より)
持珠院という寺院になっており、山頂に「井上様」という小祠と空堀があるということだったが、
見つけ損ね、さらに標高を上げて登ってしまった。道沿いには、遺構ではないと思うが、
このエリアに多い石垣があったり、切岸状の箇所が結構あった。
天文元年(1532)〜8年にかけて大洲地蔵嶽城主の宇都宮清綱が三男の房綱と築城した。
天正2年(1574)長宗我部元親に内通した大洲の大野直行攻められ、落城した。(現地説明板・大系より)
蜜柑園となっており、主郭もレールが残っており、改変されたようだ。
北側の堀切は深い藪で断念した。西側は現役の果樹園でこちらも後世に削られたようだ。
南側に石塁や切岸があり、堀切が残っていた。
さらに南に下ったところにも堀切らしい跡があったが大系の縄張り図にはないので遺構かどうかは分からない。
築城時期は不明。河野氏の重臣の埴生氏の居城であった。
天正13年(1583)秀吉の四国征伐の際に、湯築城の河野通直が降伏したのに伴い、
埴生加賀守盛周も開城した。(現地説明板より)
垣生山として整備されており、山頂部に遺構らしい物はない。
北の弁天山への道を下った辺りに、竪掘らしい跡を伴った堀切を埋められたような跡が残っていたが、
実際にそうだったかは分からない(右端画像)。
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