大友氏の宇和侵攻が始まる、
天文15年(1548)から弘治2年(1556)西園寺実光が
松葉城から本城を移したと推測される。
元亀3年(1572)に大友宗麟に攻められ、公広は和を請い、天正12年(1584)長曽我部氏に屈した。
しかし翌年秀吉の四国征伐により、長曽我部氏が屈すると、毛利輝元の斡旋により在城だけ許された。
天正15年(1587)大洲地蔵嶽城主となった戸田勝隆に下城を命ぜられ、その後謀殺された。
松葉城とはJR予讃線・国道を挟んで反対側に位置し、全山を利用した連郭式の城だった。
尾根上を3つの郭に分け、切岸には石塁が残っている。
また井戸跡も残っている。
主郭の南西端は送電線で破壊されているが、岡城方面には堀切が2条残る。
松葉城に比べれば洗練された感がある。
黒瀬城の主郭から堀切を2つ越えて、尾根を登って行くと、岡城の堀切に至る。 山の外側である北側は土塁が連なり、高度を上げていくと、最後に堀切があり、 主郭に達する。主郭は円形に近く、土塁で囲まれている。 水ヶ森城方面に下ると、堀切が2条残っている。
西園寺公広の家老の久枝又座衛門尉与綱の城という。(中世宇和の山城(二))
岡城から堀切を2条越えて、時折テープで道が示されている。
少し行くと、植林管理用の目印も出てきて、最後に急登を登ると、
石塁を伴った郭に至る。
土橋のような部分を登ると最高部の郭に至る。
南西に尾根を下ると浅い堀切が2条ある。
一方、東の護摩が城方向には郭が2段続き、真ん中の郭は土塁で囲まれている。
東側の郭の先は狭い郭が数段続く。その先は未確認。
天正年間は難波江藤太夫・蔵之助が拠った。(現地木碑より)
難波江氏を祀る杉尾神社に木碑がある。
前の段畑は館跡ということである。
裏手の山が気になったが、疲労と藪に怖気づき敬遠した。
大久主馬範貞の居城。(伝宗寺説明板より)
大久主馬範貞が建立したという伝宗寺のすぐ横に位置する。
石垣で築かれた櫓台のみが残る。付近は寺と住宅で遺構はないようだ。
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