曾根左衛門督高昌が天文12年(1543)近江国愛知郡曾根から、
移って来て、築城したという。弘治2年(1556)西園寺氏と宇都宮氏の争いでは、
宇都宮氏に加担したが、鳥坂で討死した。
その後は、丹後守宣高で、天正5年(1577)に龍王城の城戸直盛・直宗親子と戦い、
勝利し、龍王城を手に入れた。天正13年(1585)秀吉による四国征伐の際には、
いち早く小早川隆景に降り、隆宣と改名し、従来通り領地を治めたが、
小早川隆景が去り、戸田勝隆が新領主となると没収された。(大系より)
南側を流れる麓川を渡り、住宅地の中に城址を示す石製の標識がある。
台地上の城址へ登ると、耕作放棄地?となった畑は荒れまくり、
藪には狸が2匹もいて、お互いにその存在に驚く羽目になった。
城郭大系の縄張り図によれば、本丸の先には、
望楼や空堀2本あるようだが、そこまで行きつけなかった。鎌などあれば行けそうではあるが。。。
二の丸の北東端には石塁があり(左3画像)、
二の丸の南東部の出丸への断面には石塁が良く残っている。(右1,2画像)
平安時代に越智喜多守が砦を築き、7代目の益躬まで居城していたという。 室町時代には久保因幡守高実が居城した。 天正初期に城主の城戸直宗が、曽根宣高に落城されるもその後奪還したが、 天正5年(1577)7月14日に宣高に攻められ、落城し、河内駿河守吉行が城代として居城した。 天正13年(1585)宣高が小早川隆景に降り、廃城となった。(現地説明板より)
元弘元年(1331)宇都宮豊房が地蔵ヶ岳に築城した。
天正8年(1570)豊綱の時に大野直之に奪われた。
天正13年(1585)秀吉の四国平定後に湯築城の小早川隆景の枝城となった。
天正15年(1587)戸田勝隆が16万石で大洲に入城した。
文禄4年(1595)藤堂隆虎が7万石で板島に入城し、大洲城は代官が置かれるも、
その後に居城を大洲に移した。
慶長14年(1609)脇坂安治が5万石余で入城する。
元和3年(1617)加藤貞泰が6万石で入城し、以後加藤氏が明治維新まで続いた。
平成16年(2004)に天守閣が復元された。
(現地資料・大系より)
肱川を北に、水掘りを周囲に巡らしていたようであるが、
現在は住宅化に伴いかなり埋まっている。
現在、内堀しょうぶ園となっている所も堀の跡で、
大洲高校のテニスコートの横に、南隅櫓が残っている。
嘉禎2年(1236)西園寺公経の荘園となり、永和2年(天授2年1376)公良の時に、直接松葉城に入った。
19代20代実光・公家の時に枝城の黒瀬城を本城とし、松葉城は枝城となった。(大系より)
郭内は広く、3つに区画されているようであるが、
平坦というよりはわりと岩場もあってごつごつとしている。
南側に堀切があり(中央画像)、公園化に伴い、階段が一の郭まで伸びているが、
これがなければ簡単に登れそうにもない。
一方、北側の斜面には石塁の跡らしい箇所があった。
ちょうどこの日に現地の方々による草刈りが行われようとしていた。感謝。
松葉城および明石寺の詰めの城、松葉城から明石寺まで抜け穴があったという伝承がある。
(中世宇和の山城(二)より)
松葉城の堀切から尾根を登った先にある。
南東側は柵があって入れないが、柵に沿って登り、巨岩のひしめく斜面を登り切った所が城址である。
山頂を平坦にしただけで余り整備されておらず、周囲を土塁で囲んだ単純な構造である。
詰めの城だったか、農民の逃げ込み用の城だったのか。
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