加藤嘉明が慶長7年(1602)に正木城から本城を移すために築城を始め、
翌8年10月居を新城下に移し、城下町を「松山」と命名した。
寛永4年(1627)未完成のままに会津若松に転封となり、
出羽上山城の蒲生忠知により完成を見た。
寛永11年(1634)8月忠知が病没、嗣子断絶となり、
翌年伊勢桑名から松平(久松)定行が入った。
寛永16年(1639)五重の天守を三重に改築した。
天明4年(1784)定国の時落雷で天守は焼失し、
安政元年(1854)勝善の時に天守は復興した。(現地パンフ・大系より)
二ノ丸史跡庭園(最左画像)の裏手から大手門へ登城道がある。
21棟の重要文化財が残っている。
建武3年(1336)河野通盛は本拠を、ここに築城し移した。
河野惣領家は北朝方であったが、周囲は南朝方が多く、
暦応4年(1341)土居通世・忽那義範らに攻められたが持ちこたえた。
翌年再び攻められ落城したが、奪回に成功した。
天文4年(1535)通直の時に外堀「湯付堀」を築造した。
その後、後継者問題で、村上(来島)通康は離反し、
天正13年(1585)秀吉の四国攻めにより、小早川隆景の前に開城降伏した。
その後、小早川氏が入ったが、筑前名島に移ると、福島正則が入り府中城に移り、廃城となった。
(大系・現地パンフより)
現在、道後公園であり、国史跡指定を受けており、整備されている。
展望台ある壇上(最左画像)を中心に、内堀(左2画像)とその外側の居住区(中央画像)や庭園区、その外側には土塁と水掘が残る。
東側が大手口で西側が搦手口である。
建武年間(1334〜38)に風早郡から湯築城に本拠を移した河野通盛により築城されたと推測されている。
15世紀半ばから河野本家と分家豫洲家の内戦の際に、河野通春がここに拠り、
寛正6年(1465)に重見飛騨守がここで討ち死にし、文明14年(1482)通春がここで病没し、
本家に落城された。その後、河野氏は直属の海浜防備隊である湊山衆をここに置き、
忽那氏に統率させ、大友氏や毛利氏からの侵略を撃退した。
しかし、天正13年(1585)小早川隆景の攻撃を受け落城した。
(大系より)
説明板横から登り口があり、竹藪に主郭まで一応登って行ける。
主郭近辺には切岸らしい跡が残っている。
主郭から西へさらに郭が続いているらしいのだが、如何せん藪が酷く、行く気にはならなかった。
河野通久が承久の乱で功をあげ、久米郡石井郷をもらい、築城した。
明治21年(1888)土佐街道の建設の際に取り崩され、現在遺構は残っていない。(現地説明板より)
現在、城山神社となり、オガタマノキが天然記念物として立っている。
元弘3年(1333)長門探題の北条時直が、伊予の勤王軍の討伐に、2月に失敗後、
3月に水居津に上陸、星岡城を占拠した。
3月12日土居、得能ら連合軍と激戦になった。
探題軍は全滅に近い敗北で時直は身一つで逃げたという。(現地説明板)
小野川を南に控えた、星が岡公園の北側、雲門寺の背後に位置する。
遺構らしい所を見いだせなかった。
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