黒丸城主安永氏の端城として平山城の名前が残るが、断定できていない。
(福岡県中近世城館遺跡IIより)
福岡県の城郭では六社八幡城とあるが、麓の八幡宮周辺のIを指すか。
六社八幡宮の作業道を挟んだ東側も小高い丘となっており、遺構のようではある(左端)。
現地の方によれば建物の跡が検出されたとか。
神社の北側から登ろうとすると、1本堀切がある(左2)。
やや藪の道を少し登ると、堀切があり(左3)、切岸を伴った、I郭の主郭となる。
斜面側にも堀切が1本あり(左4)、主郭はそんなに広くはない。
さらに西へ山側へ行くと、深い堀切があり(右1,2)、I郭の遺構はここで終わる。
II郭はI郭から強引に傾斜を30m登った所にあり、やや足跡が残っていた。 坂を登り切った所が主郭らしく、目立った構造はない。 南側の2段ある平坦地は、福岡県中近世城館IIによれば、後世の造成面だとか。 II郭の西側である山側には堀切が残る。 この堀切を越えて、III郭へ当時か後世の物か分からないが、登山道が残っている。
登山道(軍道?)は、途中で藪化するので、やや逸れて北側から迂回した。 再び登山道と合流し、南へ進むと、平坦地があり、 堀切があり、5mくらいの差があって主郭となる。 主郭の東側である麓を見下ろす位置には広い腰郭が残る。 主郭の南側には堀切が3重になっている。 畝状竪堀等はなく、技巧的ではないが、I〜IIIまで連携すればそこそこ規模の大きい城郭である。
宗像氏の支城で、安永越中が城代だった。
天文11年(1542)大友氏の鞍手侵入の際に宮永城攻めの前に落城した。
(福岡県の城より)
日少神社の裏手から尾根伝いに主郭まで行ける。
神社裏から一登りで最初のピークがあり(ここも郭か)、
北に平坦な尾根がある(左2)。
もう一登りすると、主郭手前の腰郭で、南東側に郭が残る。
主郭はさらに登った所で、背後に大堀切が残る。
堀切の北側は平坦面となっているが遺構ではないようである。
築城時期は不明。奥主膳正、または金子又三郎が城代としていたらしい。(福岡県中近世城館遺跡IIより)
山口八幡宮を通り過ぎて、しばらく行くと、北側に階段を登った先に祠があり、
そこから植林地帯を登れば辿り着く。
南西から伸びる尾根を堀切で断ちきっただけの簡単な構造ではあるが、
似た構造の地蔵山城よりも迫力がある。
尾根側をさらに登り詰めてみると、
遺構はないが、削平された平坦地などあり、尾根上にも郭などあったのかもしれない。
尾園加賀守または柴田左京が城主であった。(福岡県中近世城館遺跡IIより)
伊豆国から下向し、建久3年(1192)9月尾園重秀が地頭職となり築城した。
天文11年(1542)大友勢13000が鞍手郡内に侵入し、宮永城攻めの前に落城した。(福岡県の城より)
山口八幡宮の社殿の裏から植林された林を登って行くと主郭南東部の堀切に出る(左端画像)。
南西部の腰郭は木が繁茂して平坦面が確認しにくい。
主郭は平坦で石碑が立っている(左2)。
北西部の堀切は南東部よりも埋まっていないせいか深い(左3)。
北東部に広がる腰郭は南西部に比較して平坦で広い(右端)。
「筑前要領」では、森備中守が城代、福岡県地理全誌では峯弥三郎が城主となっている。(福岡県中近世城館遺跡IIより)
天文11年(1542)鞍手郡に侵入した大友勢により落城された。(福岡県の城より)
尾園城を見た後、農作業中の地元の方に道を教えてもらい、
九州自動車道の脇から入り、九電の作業道に合流し、そのまま送電線まで行ける。
途中数段の切岸などあるが、遺構なのか後世の物なのかは微妙である。
送電線の脇の急傾斜面を強引に登ると、
すぐに南側の唯一の見どころの堀切と土橋がある。
主郭は平坦であるが藪っている。
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