高鳥居城の出城であったと伝わる。飛尾城とも呼ばれた。(福岡県の中近世城館跡IIより)
須惠町若水林道入口に自転車を停め、林道を歩き、左谷山健正寺方面から上がってくる道と合流し、
しばらく行った所から入った(左端画像)。全体が植林地帯である。
西側から廻りこむと、すぐに堀切がある。やや藪化している。
荒れ気味の尾根を伝って、30m程南下すると、下り出し、
堀切(左2)と主郭を中心とした小山が現れる。
西側に回ると、北西に伸びる尾根を断ち切る、堀切が残る(左3)。
北西の尾根は郭だった可能性も高いが、シダ類で藪化している。
急斜面を強引に登ると、主郭で削平されている(左4)。
主郭の北側は先ほどの堀切との間に堀切と郭が1段残る。
一方、南側は堀切(左5)で区分けされた2つの郭が残る。
最南端は土塁でやや高くなっている(右端画像)。
先ほどの入口に戻り、林道で断ち切られた北側の若杉山方面への尾根に上がってみたが、
遺構らしい物はなかった。
筑紫氏の端城か。城主は不明。(福岡県の中近世城館跡IIより)
主郭の最高点に円墳があり、崩落して、陥没している。
主郭南側の尾根に堀切があり(最左画像)、
主郭の東西にそれぞれ横堀が走っている。
筑紫氏が筑紫神社の社司であった頃の居館跡。
15世紀中ごろに筑紫教門が原田城に拠っていたとあり、原田城が当居館を指すと推測されている。
(筑紫野市史より)
現在の筑紫小学校一帯と推測される。
周囲との比高は10〜15mあり、校地や住宅地となっており、
遺構は残っていないが、地形や町並みから当時の雰囲気がわずかに残っている。
7世紀に造られたと考えられる長さ500m規模の土塁が発見された。
文献資料に記載はないものの、古代大宰府を防衛する意図をもったものと考えられ、
百済の城域思想を系譜に持つ大宰府都城の外郭線に関わる土塁であると推測される。
(前畑遺跡第13次発掘調査現地説明会資料より)
筑紫駅の西側の住宅予定の開発地域にあり、
今後の存続は怪しいよう。
麻底良城の端城か。 前隈山城のすぐ北側に位置し、神田山と呼ばれる。薬師堂が山頂部にある。 切岸らしい跡は残るが、かなり後世に改変されたように見える。
麻底良城の端城と伝わる。江戸時代後期には既に畑となっていた。(『福岡県中近世城館遺跡等詳細分布調査報告書1』より)
現在は柿園となり、明確な遺構はないが、段々状の切岸らしい雰囲気は残っている。
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