筑前22



砥上山城米山城唐山東城高丸城宮永城

砥上山城

筑前町(旧夜須町)

秋月二十四城の1つ。城主など詳らかでない。
九電の送電線の管理道が当時の道?を利用して存在するのでアプローチはたやすい。 竹林となっているので遺構もよく残っており分かりやすい。 東側に幅3mくらいの堀切があり(左端画像)、1段上がると主郭である(左2画像)。 その西側に東側よりは浅い堀切がある(右2画像)。 南側に腰郭が2段残る(右端画像)。畝上竪堀などはないようである。 麓近くにも尾根上に切岸のような跡が残っている。


米山城

朝倉市(旧杷木町)

白木玄蕃允が築城し、秋月氏の端城となり、松原筑後が城番となった。 秋月二十四城の1つ。 (福岡県中近世城館遺跡等詳細分布調査報告書1・福岡県の城より)
大手山2000年農業公園から伸びる米の山線をしばらく行き、送電線を少し行った辺りから、 植林地帯内に入ると、黄色いペンキで杉に印があり、 北東に行った辺りで下りだしたところで、北にやや藪を抜けると、 尾根が続いており、尾根伝いに北東へしばらく行くと、 米山の麓に出て、最後の急登で山頂に至る。 南側はここ数年で伐採されているようで、見晴らしは良くなっているが、 藪が増えてしまって、せっかくの堀切が判別しにくくなっていた。
山頂部に主郭だけ整形されて、それ以外は整形されていない(左1,2画像)。 南側に下ると5本堀切があるようだったが、一番上の堀切は深く、 後はかなり浅くなってしまっている(左3,4画像)。 北側は植林内で薄暗く、堀切が1本ある(左5画像)。 一旦鞍部に下り登り返し1つピークを過ぎて行った先が丸城であったが、 手前で自然林に遮られ、廻りこむことなく引き返した。 丸城には数段の郭があるだけのようである。


唐山東城

宇美町・大野城市

大友氏に属した安河内備前が城主であったという。 東城は太宰府から宇美に抜ける唐山峠を押さえるためにあった。 永禄11年(1568)大友宗麟と従兄弟である箱崎座主麟清法印は、 岩屋城で大友勢の通行を阻止していたのに対抗し、向城である唐山(賀良山)城を築城した。 その後麟清法印逝去後も、替わった方清法印が立花山城とともに防衛の任にあたった。 (大野城市史より)
井野山山頂付近は展望台など作られ、遺構は残っていない。 車道ではなく、麓からの登山道を登り送電線の保線用階段を登り、尾根に出た所を山頂でなく、 反対側に行くと、かすかに堀切が1条あり、切岸を伴った郭らしい三角形の平坦地が残っている。 唐山峠へ至る尾根上に位置する。山頂へ向かう尾根上にもかつては遺構があった可能性もあるが、 今は残っていないようだ。


高丸城

宮若市(旧若宮町)

宗像氏の宮永城防衛の重要拠点として築城された。 天文11年(1542)4月に大友勢が鞍手に侵入し、茶臼岳城、尾園城、岡山城、中尾城、寺山城を焼払った後に搦め手から押し寄せた。 最終的に落城し、城代石原源九郎は討ち死にした。(福岡県の城より) 「筑前要領」には高丸城代 吉原源九郎、同栄田十郎宮代と、「福岡県地理全誌」には、城主を小力又三郎としている。 (福岡県の中近世城館跡IIより)
高丸山山頂の北東側に堀切を挟んだ、やや低いピークを主郭とした、 腰郭が1つの小規模な城郭である。 登山口から赤いビニールテープが張ってあり、ほぼ迷うことなく山頂まで辿り着けるが、 最初は倒竹だらけで前に進むのに苦労する。


宮永城

宮若市(旧若宮町)

宗像氏の支城で、鞍手郡内の本城で、重臣吉田氏が城主だった。 天文11年(1542)大友氏が1万3千で鞍手郡内に攻め寄せ、 堀谷城、都市原城、茶臼岳城、尾園城、岡山城、中尾城、寺山城、高丸城、篠城、黒丸城、湯原草場城、 熊ヶ城などを焼き払って落城させ、宮永城に迫った。 城主は吉田掃部貞昌で以下1300で守ったが、4月27日落城し貞昌は討ち死にした。(福岡県の城より)
登城路はまた ここ を利用させていただいた。 林道入口から入り(上段左)、砂防堤横の送電線の管理道(上段右)から入ると楽に行ける。 鉄塔に至ると、すぐその上に堀切が見える(中段最左)。 ここを越えて一登りすると、南北に長い主郭に入る(中段左2)。 西側は浅いながらも多数の畝状竪堀があり、また東側には少ないが深い畝状竪堀が良く残っている(中段左3,4)。 南には土塁があり、その下に堀切が2条残る(下段左1〜3)。 堀切を越えてしばらく南下すると、やや荒れ気味の二郭で、腰郭が残っている(下段4)。 一方、主郭の北側には堀切と土橋が残る(下段最右)。






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