秋月二十四城の1つ。城主など詳らかでない。
九電の送電線の管理道が当時の道?を利用して存在するのでアプローチはたやすい。
竹林となっているので遺構もよく残っており分かりやすい。
東側に幅3mくらいの堀切があり(左端画像)、1段上がると主郭である(左2画像)。
その西側に東側よりは浅い堀切がある(右2画像)。
南側に腰郭が2段残る(右端画像)。畝上竪堀などはないようである。
麓近くにも尾根上に切岸のような跡が残っている。
白木玄蕃允が築城し、秋月氏の端城となり、松原筑後が城番となった。
秋月二十四城の1つ。
(福岡県中近世城館遺跡等詳細分布調査報告書1・福岡県の城より)
大手山2000年農業公園から伸びる米の山線をしばらく行き、送電線を少し行った辺りから、
植林地帯内に入ると、黄色いペンキで杉に印があり、
北東に行った辺りで下りだしたところで、北にやや藪を抜けると、
尾根が続いており、尾根伝いに北東へしばらく行くと、
米山の麓に出て、最後の急登で山頂に至る。
南側はここ数年で伐採されているようで、見晴らしは良くなっているが、
藪が増えてしまって、せっかくの堀切が判別しにくくなっていた。
山頂部に主郭だけ整形されて、それ以外は整形されていない(左1,2画像)。
南側に下ると5本堀切があるようだったが、一番上の堀切は深く、
後はかなり浅くなってしまっている(左3,4画像)。
北側は植林内で薄暗く、堀切が1本ある(左5画像)。
一旦鞍部に下り登り返し1つピークを過ぎて行った先が丸城であったが、
手前で自然林に遮られ、廻りこむことなく引き返した。
丸城には数段の郭があるだけのようである。
大友氏に属した安河内備前が城主であったという。
東城は太宰府から宇美に抜ける唐山峠を押さえるためにあった。
永禄11年(1568)大友宗麟と従兄弟である箱崎座主麟清法印は、
岩屋城で大友勢の通行を阻止していたのに対抗し、向城である唐山(賀良山)城を築城した。
その後麟清法印逝去後も、替わった方清法印が立花山城とともに防衛の任にあたった。
(大野城市史より)
井野山山頂付近は展望台など作られ、遺構は残っていない。
車道ではなく、麓からの登山道を登り送電線の保線用階段を登り、尾根に出た所を山頂でなく、
反対側に行くと、かすかに堀切が1条あり、切岸を伴った郭らしい三角形の平坦地が残っている。
唐山峠へ至る尾根上に位置する。山頂へ向かう尾根上にもかつては遺構があった可能性もあるが、
今は残っていないようだ。
宗像氏の宮永城防衛の重要拠点として築城された。
天文11年(1542)4月に大友勢が鞍手に侵入し、茶臼岳城、尾園城、岡山城、中尾城、寺山城を焼払った後に搦め手から押し寄せた。
最終的に落城し、城代石原源九郎は討ち死にした。(福岡県の城より)
「筑前要領」には高丸城代 吉原源九郎、同栄田十郎宮代と、「福岡県地理全誌」には、城主を小力又三郎としている。
(福岡県の中近世城館跡IIより)
高丸山山頂の北東側に堀切を挟んだ、やや低いピークを主郭とした、
腰郭が1つの小規模な城郭である。
登山口から赤いビニールテープが張ってあり、ほぼ迷うことなく山頂まで辿り着けるが、
最初は倒竹だらけで前に進むのに苦労する。
宗像氏の支城で、鞍手郡内の本城で、重臣吉田氏が城主だった。
天文11年(1542)大友氏が1万3千で鞍手郡内に攻め寄せ、
堀谷城、都市原城、茶臼岳城、尾園城、岡山城、中尾城、寺山城、高丸城、篠城、黒丸城、湯原草場城、
熊ヶ城などを焼き払って落城させ、宮永城に迫った。
城主は吉田掃部貞昌で以下1300で守ったが、4月27日落城し貞昌は討ち死にした。(福岡県の城より)
登城路はまた
ここ
を利用させていただいた。
林道入口から入り(上段左)、砂防堤横の送電線の管理道(上段右)から入ると楽に行ける。
鉄塔に至ると、すぐその上に堀切が見える(中段最左)。
ここを越えて一登りすると、南北に長い主郭に入る(中段左2)。
西側は浅いながらも多数の畝状竪堀があり、また東側には少ないが深い畝状竪堀が良く残っている(中段左3,4)。
南には土塁があり、その下に堀切が2条残る(下段左1〜3)。
堀切を越えてしばらく南下すると、やや荒れ気味の二郭で、腰郭が残っている(下段4)。
一方、主郭の北側には堀切と土橋が残る(下段最右)。
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