西牟田家周が築城。が、大友氏に攻められ落城し、
城島城に逃げたといわれる。
小さな塚があるという現地の人の言葉であったが、
麦畑の中に隠れてしまっていたのか、確認できなかった。
その後、確認(画像2)
鎌倉時代から当地を治めた草野氏の本城。島津氏等の侵攻に備え、
ここを捨て、発心城に移った。
麓に現在は若宮八幡宮があり、当時は屋敷等があったようだ。
本丸はヤブだらけで敬遠したが、南と西にかなりの堀切がある。
また西斜面に縦堀が存在する。登山コースから離れるために道は荒れている。
竹井城から字竹井城への道の途中に見事な石塁が残っている。
11年振りに再訪。
林道から尾根沿いに北上すると、堀切がある(左端画像)。
そのまま登ると主郭で、左に回り込むと西斜面に4,5本畝状竪堀がある(左2画像)。
さらに北上すると西へ伸びる尾根上に深い堀切がある(左3画像)。
現在残る城域はそんなに広くないようで、東側は割と急斜面で藪化しており、
遺構らしい物はなかった。主郭は藪化している。
竹井城の物見とあるが、規模はそれ以上のものという。
竹井城から南へ400m。標高を300m程稼がねばならない。
看板の右横に入り口らしき箇所があるが、2003年8月現在ヤブに覆われている。
ヤブ漕ぎして少し行っても道が判明せず、やむなく引き返した。
2014年12月再訪したが、1回目は最初の画像の看板が撤去されたようで見逃す羽目に陥った。
翌週再々訪した。堀切は現在林道が通りというか、
堀切のあった箇所を利用したのが正解か、痕跡がよく分らない。
その南側の小高い場所に遺構が残る。北端の下には竪堀があるようだが、
急斜面で未確認。南側は削平されていて、1段高くなり(左2画像)、
堀切のような溝があり、中央に穴があり、どうやらのろし場として解釈されているよう(右2画像)。
一方、林道で切り離された南側の登山道の開始地点には、堀切が残り(右端画像)、
さらに登ると明確な跡はないが意図的に削平された跡などが山頂まで続く。
山頂部にもひょっとしたら城跡があったのではないかと考えられるが、
凌雲台という見晴らしの利く広場に戦前に?削られてしまって遺構も何もない。
発心城に本拠地を移した草野氏の平時の館があった。
現在は発心公園となっているが、段状の跡が歴然と残る。
堤氏が室町時代に築城した。龍造寺・鍋島に付いたようで、
最終的に鍋島家に仕えた。
現在は神社となって遺構はよく分らない。すぐ南を筑後川が流れてはいるが、
当時もそうだったかもしれないし、北を流れていたかもしれない。
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