田尻氏の本城。竜造寺勢に囲まれたりもしたが、守り通した。
現在は遺構ははっきりせず、田尻親種の墓がある。
田尻氏の4支城の1つ。永江氏の居城で田尻氏とともに守った。立花宗茂の柳川藩主と
なった際に弟の統増の居城となった。その後、柳川藩が田中氏の際に一国一城令で
破却された。
現在はこの辺りも田んぼや民家、淀姫神社となって遺構ははっきりしない。
三池氏の居城。田尻氏に落城された。
現在は水天宮があり竹藪となっている。しかし、曲輪の跡はそれなりに残っている。
筑紫広門が秀吉から拝領したが、関ケ原の戦いで西軍についた為に改易になった。
その後、柳川の田中吉政の領するところとなったが、
田中家も嗣子断絶で改易になった。
現在は天守台のみが残る。
かつては3重の堀もあったようだが、その跡も八女公園内の堀割を除けばない。
【追記】
天正15年(1587)に筑紫広門が山下城に入り、ここに支城を築いた。
が、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に属したために除封となり、
田中吉政の三男康政が入り、規模を拡張させた。
しかし元和6年(1620)田中家の嗣子断絶で除封となり、その後、久留米藩の有馬家の領地となったが、
一国一城令で廃城となった。(現地説明版より)
黒木氏の同族川崎氏の居城。
最初は大友氏に属したが、耳川の戦いでの大友氏の大敗北の後に龍造寺氏に与した。
その後、大友義統の筑後侵入で立花・高橋軍の援軍が到着後、
猫尾城が落城するとこちらも降伏した。
童男山古墳の裏手にある山。
堀切の跡は残り、本丸跡は訪れる人もいないせいか草が繁茂しまくっている。
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