高良山座主の出城。
王子池から毘沙門嶽へ川沿いを登り、右端画像の橋を渡り、
崩れているが鉄パイプの手すりの道を登って行くと、
東西に細長い主郭に到達し、地蔵が祀られ、東側には人なき住居が残っている。
遺構は北斜面に広がる。
パイプの手すりは崩れており、西側の郭の周辺から急斜面を下ると、
畝状竪堀群が残っている(左1,2画像)。東側はだいぶ崩れてしまっているが、
西側は5,6mはあり、下部は横堀が走っている。
一方、郭の東側には堀切が残っている(左3画像)。全部で5本あるようであるが、
残り4本は未確認。
6〜7世紀に築城。座主の出城。
曲輪跡?が残る。遺構はよく分らない。高良大社に向かう登り道の途中に切岸が続くが、
いつの時代の物か分からない。
王寺池の南側にある400段の階段を登った場所にある。
草野家清の居城。初め、大友氏に従ったが、
耳川の戦いでの大友氏の大敗北により竜造寺氏に寝返り、
元々竹井城にいたのを手薄に感じて、発心山に築城した。
その後、家清は秀吉の九州征伐の際に謀殺された。
現在麓の発心公園は屋敷跡で登山道の途中に石垣の跡などが見られる。
発心山の頂上の付近に城跡があり、堀切の跡や土塁の跡もある。
東の郭へは藪っているが、北側に土塁が残る(上段最左画像)。
さらに行くと堀切があり(上段中央画像)、
小さな郭を経て、堀切がある(上段最右画像・道路で痕跡が薄い)。
主郭には土塁のような物もなく削平地が段になっているだけである。
北側の2郭とは堀切を挟み、2郭の北端で、北東と麓へ下る北西の郭に分かれる。
北東の郭の北側は土塁が残り、先端は堀切があるが、倒木で埋まりかけている(下段右2画像)。
草野歴史資料館でいただいた登山道の発心城コースの紹介の資料にある、 中腹の城マークの箇所。横岩ルートに入ってすぐの所に監視用として築かれたか。 土塁らしい跡と櫓台が残る。
尾根ルートの途中にあり、中腹に削平され土塁で囲われたエリアがある。
発心公園から登山道に入ってすぐに切岸が残っている。
星野を本拠とする星野吉実の居城。
曲輪の跡や堀切の跡がはっきりと今も残る。
【追記】
星野中務大輔鎮胤(吉実)が築城した。
(福岡県の城郭より)
道路に面した南西側に数十本の畝上竪堀があるようだが、現状草木に覆われ確認できなかった。
北側の石垣方面への登山道に遺構なのかはっきりしない構造をしたものがあった。
田川長門守の居城。一族の西牟田氏を救援に向う途中に龍造寺氏に殲滅された。
現在は玉垂神社となって遺構は少しばかり台地状になっているだけで、
ほとんど感じられない。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。