大友方の安武氏の居城。竜造寺家臣横岳頼氏に落城された。
その後竜造寺氏、立花氏と移り廃城。
見ての通り、田んぼしかない。というか、田んぼの中に碑が忽然と存在する。
近くに城主安武氏にまつわる八幡社もある。
天文2年(1533)に八尋式部が築城したと伝わる。
その後、永禄12年(1569)大友宗麟が筑後攻めの際にここに陣を布いている。
天正15年(1587)秀吉が九州征伐の際にここに陣を布いた。(福岡県の城郭より)
主郭に金毘羅神社が祀られており(最左画像)、その東側は深い堀切がある(左2画像)。
主郭から西側に下ると広い郭がある。その郭の南側から西へ伸びる道を下ると、
先ほどの郭から下る尾根を切る、大きな堀切が残っている(左3画像)。
堀切を越えた先で縄張りは南北に分かれ、
北斜面には、堀切が2本それぞれ残っている(左4,5画像)。
一方、北東にも王子宮に下る尾根上にも郭があり、
堀切が残っており(最右画像)、範囲はかなり広い。
住厭城ともいう。南朝方の菊池氏の居城。
その後、高良大社をめぐって大友氏、竜造寺氏、島津氏と主を代えた。
高良大社の背後の神籠石の辺りから鳳山さらに毘沙門岳城までの尾根上に展開する。
鳳山の北側にある畝状竪堀群は藪っていて見逃したが、鳳山から東へ堀切が2条綺麗に残っている(右1,2画像)。
築城年代ははっきりしないものの、延文4年(1359)杉城とともに懐良親王の本城であった。
その後、大友氏により改修されたと推測されている。(福岡県の城郭より)
現在は森林公園となり改変された部分もある。
つつじ公園の裏側に横堀が綺麗に残る(最左画像)。
階段を登ると、その階段は主郭のある中心部分と北西に伸びる郭群を切る堀切がそのまま利用されていた(左2画像)。
北西に伸びる郭群は公園化の影響か遺構は残っていない。
一方、主郭の方へ登ると、すぐ堀切があり、その上が主郭となる。
主郭へは一気に登れず、南西の郭へ廻りこむように誘導される
主郭は高良山の山頂となっている。
そのすぐ東側も堀切(左3画像)で、さらに東の尾根上にもう1本堀切がある(左4画像)。
主郭から南西に伸びる郭をひたすら行くと、土塁が残り、
その下は堀切となっている(左5画像)。
一方、森林公園から鶴ヶ城の方へ王子宮コースを下って行くと、
左側の尾根は毘沙門嶽城から伸びる尾根で、堀切らしい跡が1本残っていた。
耳納山の頂上にある。かなりの急斜面になっている。
遺構ははっきりしない。
耳納山の山頂ではなく、東泉、山本の南側の三角点429.4の上部に位置する。
南側に峠道がありそこから尾根を辿って行ける。
まず横堀のような堀切があり(左端画像)、その後、はっきりとした堀切があり(中央画像)、
それを越えると急斜面で石碑のある主郭に至る。
主郭自体平坦でそこそこ広いが藪化しており、
また1段北側に下った2郭の北端には上述の三角点があるが、
こちらも藪化している。
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