真理谷信興が安房の里見氏の北上を防ぐために、
峰上城、造海城とともに築城したという。
造海城の支城として家臣の佐久間藤内が入った。
しかし文明年間(1469〜87)に里見成義が落城させた。
天文年間初頭には里見氏傍流の実尭の勢力下で、一時後北条氏に攻略されるも、
その後は造海城主内房正木氏の支城であった。
(房総の城郭・大系より)
現在は、保養所金谷城スポーツセンターとなっており、
遺構はほとんど残っておらず、敷地内に唯一、四脚門(左画像)が残っている。
フロントでお願いすれば拝見させてもらえた。
センター内の尾根の中に入り込みたい衝動に駆られたが、フェリーの時間もあり断念した。
千葉氏家臣の押田氏の居城と推測されている。(房総の城郭より)
天神山公園となっており、全くと言って良いほど、城の臭いが消されている。
展望台のある曲輪が最高部で主郭らしく、櫓台が残り、今は祠がある(上段最左画像)。
主郭から西、北へ尾根が派生し、曲輪が展開されていたのであろうが、
公園化されてしまっている。
東側に浅い空堀を挟んで広大な、サッカーゴールがある曲輪があり(上段左2画像)、
その東端も櫓台があり(上段左3画像)、直下は堀切となっている(上段左4画像)。
北側は落ち込んだ平地で、屋敷などあったか(下段最右画像)。
14世紀中頃に千葉氏によって築城されたという。
その後、千葉氏の重臣三谷大膳亮胤興が城主となり、弘治元年(1555)以降に、
大台城主の井田因幡守友胤が三谷氏の内紛に乗じて胤興を討って城主となったとされる。
その後、井田氏は千葉氏に仕え、また後北条氏の被官となった。
当時の井田氏の勢力から見ても坂田城は巨大すぎ、
安房の里見氏と対立する北条氏よりの武士団が集結するために築城されたと考えられている。
天正18年(1590)4月北条追討軍により落城したという。
(現地案内板・房総の城郭より)
栗山川の支谷によって形成された半島状台地の先端部に位置し、
周囲は沖積低地に接した急崖で、南側の崖下には坂田沼もある。
坂田沼を望む、先端部に西に本丸(牙城・実城)、東に見台があり、
本丸は周囲を土塁で囲まれ(最左画像)、北側と東側は空堀で、
南側と西側、東側に開いている(左2画像)。南側は崖で下るのは容易ではない。
一方、西側は帯曲輪に下ることができる。東側は土橋で見台に繋がっている(左3画像)。
見台は三角形の曲輪であるが、現状藪っていてはっきりしなかった。
北側に空堀があり(左4画像)、土橋で北側の登城(三の丸?)に繋がっている。
登城やその北の外城(四の丸)は現在梅林として果樹園になっている。
登城と外城の間には空堀があり、土橋で繋がり(左5画像)、その横には櫓台が残る。
外城に案内板があり、麓から道があるが、これは後世に作られた道であるよう。
外城の北側には空堀と2重の土塁があり、枡形となっている(最右画像)。
ここを出て北側に行くと農園で遺構らしいものはなかった。
千葉常兼の3男臼井六郎常康が臼井を治め、室町時代初期に6代與胤が築城したと伝わる。
16代久胤まで続いた。
古河公方方に属したために文明10年(1478)千葉孝胤は太田道灌に攻められ、ここに逃げ込んだ。
翌年道灌の弟図書助資忠と千葉自胤に攻められ、落城したが、図書助資忠は討ち死にした。
戦国時代末期には原氏の居城となり、天正18年(1590)北条氏の滅亡とともに滅んだ。
その後、徳川家康の家臣、酒井家次が3万石で入り、慶長4年(1604)まで居城となった。
文禄3年(1593)には火災により焼失している。(現地案内板より)
現在は臼井城址公園となって、主郭と土橋で繋がる二郭が公園となり、
その周囲は住宅地となっている。
主郭の北側からは印旛沼が望め、かつては麓まで沼が広がっていたという(左3画像)。
北側と東側は台地の突端となって崖状になっている。
主郭を空堀が西側から囲繞し、土橋で二郭に繋がり、主郭の二郭側には土塁が残る(最左画像)。
二郭も現在の道路へ土橋で繋がっていたようで、
空堀がやはり西側から囲繞している。
太田図書助資忠の墓は二郭の外の北側にある。
里見氏重臣の内房正木氏の正木安芸守輝綱が城主であった。(『房総の城郭』より)
主郭には神社の社があり、その下に少し広い郭がある(最左画像)。南東の海に突き出た痩せた尾根上に郭は展開される。
主郭より南側の郭には岩盤を削った壁のような構造物がある。
余り整備されているとは言い難く、スズメバチを整髪剤の臭いで誘発し、危ない目に遭った。
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