15世紀後半から16世紀前半にかけて築城されたと推測されているが、
城主等は詳らかでない。(大系)
高田を中心として大堀川流域に地盤を広げていた匝瑳氏の城であったようだ。(東葛の中世城郭)
現在は、麓は住宅地や工場となっているが、
手賀沼に注ぎ込む、大堀川と地金堀が合流する舌状台地の上にあり、
当時はすぐに手賀沼に出られたのだろう。
単郭方形館と知られていたが、平成14・15年度の発掘調査により、
それ以上のものと分かった。城内には古墳もある。
土塁と空堀、数個の腰曲輪が残る。南側の虎口はやや痕跡が薄い。
平成21年から柏市が借地、整備したうえで公開している。
相馬胤村次郎左衛門の三子三郎胤光が城主であったと推測されている。
また太田道灌の築城説も残る。(大系より)
台地上にあり、土塁(右端画像)と空堀で囲まれた東南部分が本曲輪と見られる。
その西側は土橋で横の曲輪とつながり(左端画像)、その曲輪も西側に土橋が微かに残っている。
その西側には、墳墓らしいこんもりとした小山がある。
永正年間(1504〜21)に柴原氏が居城していたらしいが定かでない。
「本土寺大過去帳」から後北条氏家臣の河村氏が城主であったらしい。
後北条氏滅亡の際に城主であった林伊賀守順道が自刃したという言い伝えがあるという。
(現地案内板と大系より)
三角形状の台地上に残る。南半分は住宅地化に伴い消滅している。
空堀3本でそれぞれ区切られた曲輪で構成されている。
西側にある三角形の頂点部分が最重要部であったらしいが、現在は竹藪になっていた。
その東側は住宅地や畑となっているが、空堀の跡が残る。
一番東側の曲輪が公園化されている。
北側が古利根沼で南側も現在は道路と住宅地となっているが、
湿地帯であったかもしれない。
築城したのは、長尾氏、または応仁年間(1467〜69)または応永年間(1394〜1428)に武田氏、という説があり定かでない。
天文6年(1537)真里谷(武田)信隆が後北条氏に応じて、小弓御所足利義明・里見義尭に対して兵を挙げたが、
かえって反撃に遭い、落城した。
翌7年に第1次国府台合戦で北条氏綱・氏康親子が里見軍を敗走させており、
同8年、11年に城主武田義信が六所神社を再建、義信の父全芳が白山神社に鰐口を寄進しておることから、
当時は武田氏が城主であったらしい。
その後、里見氏の城となったようで、
弘治2年(1556)義尭の子義弘が城主となり、里見氏の本城となった。
天正18年秀吉の小田原征伐に当たり、里見義弘は遅参で上総を没収され、
家康の家臣、内藤家長が2万石で城主となった。
慶長6年(1600)関ヶ原の戦いの前哨戦の伏見城で戦死し、子の政長が継いだ。
その後元和8年(1622)に転封され、松平忠重、
寛永10年(1633)に松平勝隆さらに子の重治と続くも罪があり除封、廃城となった。
元禄元年(1688)柳沢吉保が城主となったが、同7年に川越に移封となり再び廃城、
宝永7年(1710)阿部正鎮が刈谷から入り、8代続いて明治維新を迎えた。(大系より)
佐貫町駅から東へ向かうと、近世城下町の雰囲気が漂う鍵手状のエリアに至る。
そこからさらに東へ行くと、御殿山(松天神郭)と呼ばれる城址から西へ延びる尾根の南側で、
しばらく歩くと、石塁を伴った、樽木門(大手門)がある(最左画像)。
ここから登って行くと、左側に段々状の三の丸があり、右は東へ折れる。
二の丸の下の南側を歩いているようであるが、二の丸は完全に藪化しており入る気はしない。
しばらく行くと、空堀と土橋からなる本丸手前となる(左2画像)。
本丸はいびつな形をしており、土橋を渡り虎口から入ると土塁で囲まれた広い郭があり、
左に伸びる高台に展望台があり、さらに右の尾根にも伸び高台になっている。
この本丸から北東へ下る道があり、北西方面には搦手口だろうか石塁が残っていた(左3画像)。
この辺りは隆起地形であるせいで本丸の崖は切り立っている。
搦手口と反対側の南側に下ると、現在は田畑となっているが、多くの切り岸を伴ったエリア(産所谷、黒部谷)がある(最右画像)。
当時は屋敷群があったのか雰囲気があった。
南側の新宿の山も城址のようなので藪化した小山を登ってみたが大変だった。
真里谷を本拠とする真里谷(武田)氏が信興の時峰上城とともに築城した。
信隆の時、真里谷氏の内紛に至り、その子信政と後北条氏に援助を求めるも、
小弓御所足利義明に攻められ、信隆は造海城、信政は峰上城に籠った。
が、峰上城が攻められ、信政も造海城に籠った。
里見義尭に攻められ、真里谷真如寺の仲裁で和議が成立、開城した。
その後は里見氏家臣の正木氏の城となり、
里見水軍の根拠地として重要な地になった。
江戸中期に松平定信がお台場を構築した際に、この造海城にも手が入り、以後江戸湾を守る役目を負ったようである。
(大系・房総の城郭より)
白狐の延命寺・三柱神社側から登ろうとしたが道がなく、結局、燈籠坂大師から登り、
裏手から入った。
12月にも関わらず、藪化しており、なんとか道は確保されている感じであった。
しばらく行くと巨岩がごろごろとし、三又に分かれ、西の海方向に帯曲輪らしい数段の曲輪(中央画像)、
東へ登る道が大手道か(最左画像)。
本郭は藪化していた。
三又に下って戻り、北へ行くと、巨岩をえぐったような空堀?があり(最右画像)、
水はけが非常に悪く、足をとられ、身動きできなくなった。
さらに北へ行くと二郭へ登る道があった。
その先にも搦手へ道があったらしいが藪化していたので引き返した。
本郭へ分かれる三又の手前にも分岐があり、そこを西、つまり海方面へ行くと、
こちらは江戸時代の物だろうか数段にも曲輪らしいエリアがあった。
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