永禄の頃(1558〜70)、黒熊大膳亮景吉の居城というが確証はない。
永禄7年(1564)国府台合戦の後に土気城主酒井胤治に急襲され、
永禄12年(1569)3月28日落城、景吉は切腹したという。
その後、板倉右衛門が統治したが、天正18年(1590)秀吉の小田原征伐後、
廃城となった。
(房総の城郭・現地案内板より)
現在、麓に蓮福寺となり、その背後の痩せた尾根上が城址である。
本城山に石碑が立っている。遺構らしい物は余りないように感じた。
南側にある墓地から南側に行ってみたが、
その先は藪化しており遺構は確認していない。
岩瀬城(相模台城)の支城として築城されたと推測されている。
寛正6年(1465)に千葉氏の一族の原信濃入道とその子八郎が上杉氏に対して、
ここに立てこもったという。
原氏の後は、天正10年(1582)高城筑前守が城主であったという。
小田原征伐後は、徳川氏の旗本知行地となり、高木筑後守正次が在城し、
その子正勝が明略3年(1657)まで館を設けて在城した。(大系より)
現在は、戸定邸として整備されてしまい、遺構は残っていないようである。
戸定邸の南側に空堀?のような跡もある(左画像)がはっきりしない。
建長元年(1249)に北条長時が築城したという。
嘉暦元年(1326)北条相模守高時が入道して崇鑑と号し、ここに居住し、
相模台と称するようになったという。
戦国期には、高城氏の領域となり、
天文7年(1538)北条氏綱・氏康と里見義尭擁する足利義明の戦いが行われた。
(大系より)
現在、松戸駅のすぐ東側で、台地上で、松戸中央公園などとなり遺構は残っていない。
聖徳大学の中に戦死した足利義明親子兄弟の墓である経世塚がある(両画像)。
天文6年(1537)高城胤吉・胤辰親子が根木内城から本拠を移した。
元来ここには小規模な小城があったと推測されている。
永禄9年(1566)に上杉政虎に攻められているが、籠城し耐えたようである。
しかし、天正18年(1590)秀吉の北条征伐の際に、浅野長吉(長政)と木村常陸介一により囲まれ、
一戦に及ばず開城に至り、廃城となったようである。
昭和39年(1964)民間の宅地造成で本城・中城の遺構は消失した。(東葛の中世城郭・大系より)
現在、遺構は大勝院裏手の大谷口歴史公園に金杉口の障子掘や、畝掘、土塁など残る。
北小金駅から城址へ向かうとそこは大手口で、街道は当時の物のようで住宅化された今でも雰囲気が良く残っている。
寛正3年(1462)九州千葉氏の祖千葉胤貞から派生する高城氏の
下野守胤忠が築城した。天文6年(1537)に小金城を築城し、
高城氏は本拠を移した。天正18年(1590)に北条方に属したために小金城は接収されているので、
その際に廃城となったか。(大系より)
現在城址公園となっているものの、昭和30年代に国道6号が貫通し、
さらに住宅地化により本郭のあった城域は消滅した。
公園内には、土橋や土塁、空堀が開発を免れて残っている。
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