平安末期大庭景親が城主となる。その後、大友氏に落城されて以来大内・
大友両氏の争いの場となった。秋月氏の支城となって、
秀吉の九州征伐の際に抵抗し、種実は家臣の飽田(芥田)・熊井氏に守らせた。
が、たった1日で落城し、古処山へ逃げ込んだ種実は剃髪して降伏するに至った。
岩石山(454m)の頂上が城址。頂上の1つ下に虎口を含めた本丸跡があり、
石塁、古瓦が落ちている。
またその下には柱穴と呼ばれる石の上にに柱を建てるための穴が残る。
頂上(天守台)を馬場方面に行くと、二の丸、馬場があり、石塁も部分的に残る。
また二の丸から下りたところに井戸が残り、その近くに古瓦が大量に捨ててある。
馬場跡から東へさらに行くと、国見岩、梵字岩、八畳岩などの巨岩だらけで、
搦手だったようだ。
大友宗麟が彦山座主第14代舜有の養嗣子にしようとしたのを、秋月氏との関係もあり
断わられ、それに対し攻撃した。その際、神殿、堂宇は灰塵と化したが、結局、
上仏来山城に籠った衆徒を攻めあぐね撤退した。
上仏来山は英彦山神社への参道から途中にそれた所にある。
大手口らしき箇所からかなりあって頂上に祠がある。
大友の大軍を前に守ったわりには規模は大きくはない。
馬ヶ岳城主長野氏の砦だった。
高城山頂上付近は明らかに曲輪の跡が残る。
3、4段の構造になっている。石塁、堀切は残っていない。
諌山方向に行って、しばらく行くとある大久保山も遺構(砦?)なのかもしれない。
南北朝に宝山氏の居城で、その後安東氏が城主。
王埜八幡宮が跡地。本殿の裏から南の方へ道がある。
平坦地に出る所に堀の跡がかすかに残る。
また雑木林の中、北へ行くと3段の曲輪構造になっていることも分る。
平安時代に大宰大弐として源経基が築城した。
その後南北朝期に、南朝方の拠点として新田義基が入った。
その後の菊池氏の時に大内氏に落城され、少弐、宇都宮、長野氏と続いた。
秀吉の九州征伐後は豊前に配された黒田父子が中津城完成まで在城した。
大谷から登山道入口があり、少し行くと虎口、堀切と土塁らしき箇所がある。
その後は細い尾根筋を東峰(二の丸)まで行くことになる。
東峰、西峰(本丸)には、それと分る遺構はない。
西峰の手前から北へ突き出た祠の脇に井戸の跡か深くなった箇所もある。
土塁の跡が存在するらしいが、薮のために確認できなかった。
頂上には新田氏の功績を讃える碑が立っている。
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