宇都宮朝綱の次男家政が遠賀山鹿庄に下向し、山鹿氏を名乗り、
その子の時家がその次男の資時が麻生氏を名乗った。
文明10年(1478)家督争いで、惣領家弘家と反惣領家家延との内紛で、
大内政弘が弘家を助け、家延を攻め、開城にいたった。(現地説明板より)
遺構はかなりはっきりと残っている。
曲輪跡や石塁、馬場跡、井戸跡、堀切と保存状態は良い。
主郭の北側に下った所に、井戸がありそこから登り石垣が残っている。
後世に公園化の際に階段状にならしたという。金属製の手すりまで設置されてしまっていた。
主郭の東側には大堀切が残る。
西側に下った郭Vの横の小さな郭の南側には、
見事な石垣がり、大手口だと藪を伐採されていた方が語っていた。
史跡として整備して欲しい城址である。
こちらも山鹿氏の築城によるもの。
天正14年(1586)秋月氏方に属した麻生鎮里、統春に対して、小早川・黒田勢によって落城された。
その後は、黒田孝高家臣三宅山太夫城番になったという。(福岡県の中近世城館跡IIより)
本丸(頂上)近辺に石塁の跡の石が転がっており、東側に堀切の跡もはっきりと残る。
さらに頂上の少し前の道にも石塁が綺麗に残る。
西側にも下ったところに郭の跡がある。郭の南側には畝状竪堀が残り、
中には石塁で補強しておる物も残る。
南北朝時代にここで戦いがあったらしい。
その後、"権現"の名の通り、社域となった。第2次対戦中に対空砲火台となった。
対空砲火台の為に遺構はほとんど残っていない。
頂上に至る道にかなり古い石塁が存在するが、いつの時代のものかは分らない。
麻生氏の居城という。
落城の際に逃げ遅れた姫(城主?)が"飼馬桶"に隠れたが着物の裾がはみ出し、雑兵に見つかり殺されたと云う言い伝えがある。
現在は岩尾山(220.9m)の頂上に位置し、本丸跡が残る。土塁らしき跡が見られる。
花尾城の麻生氏の支城。
大友氏の侵攻で落城。
現在は大谷小学校や団地になっていて遺構ははっきりしない。
付近には菅原道真の下向の際に寄ったということで菅原神社や池がある。
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