関門海峡を望む古城山にあり、戦略上重要な拠点となり、
この城の攻防は絶えなかった。当初は、平家の門司氏の居城であったが、
時代が下るにつれ、大友氏と大内氏の争点となり、大内氏滅亡後は、毛利氏
がそれにとって代わった。
現在は、和布刈公園となっている。
門司城の出城。
現在は公園となっているが、マムシも出る程に整備されておらず、
三の丸跡は草が繁茂しきっている。整備されてないのが幸いして、
遺構ははっきりしている。
門司城の支城。門司港駅のすぐ裏にある、風師山系三角山の頂上に
本丸があった。
現在は、TVの電波塔があり、僅かながら曲輪らしきものが確認される。
かつては、半島の先端に位置していたが、工業団地の一角となり付近は埋め立てられ、
城の半分は工業的な理由で削られてしまった。
さらに現在(平成13年2月)は、野犬達の巣窟となって人間の侵入を拒んでいる。
いっそのこと、高崎城(現高崎山)の猿達に松山城を攻撃するように勅許を出そうかと。
また遺構はかなり残っているらしかったが、今は犬の糞で覆われていると想像する
に難くない。
天平12年(740)藤原広嗣の乱の時に築城されたという。
天慶3年(940)藤原純友の乱の時には、神田権少進光貞が立てこもり、
以後18代神田氏の城であったが、
保元2年(1157)平判官康盛が神田氏を滅亡させ、三男蔵人信盛を入れた。
平氏滅亡後には緒方氏一族の長弥太夫坊覚願が城主となった。
建久7年(1196)宇都宮信房の持ち城となり、
長野豊前守直盛と抗争になり、覚願の子は長野氏に討たれ、
建武(1334〜36)長野氏の城であった。
建武3年に少弐頼尚が落し、子の九郎頼慶を入れた。
北朝と南朝の抗争の場となったが、その後豊前は大内氏の支配する所となり、
杉弾正興信、その子弘信、その子太郎弘信が城主となった。
応永5年(1398)大友氏鑑が叛乱を起し、落城させた。
が、その後杉弘信が奪回した。天文2年(1533)杉民部少輔重盛が城主であったが、
弘治2年(1556)大友氏家臣田原親広に落城され、杉重吉は討ち死にした。
永禄5年(1562)毛利隆元は天野紀伊守隆重を入れたが、再び大友氏に落城された。
翌年足利義輝の命により和睦し、毛利元秋が城主となり、
天正元年(1573)長野三郎左衛門永盛が城主となり、
秀吉の九州征伐後は黒田如水の持ち城となり、城番が置かれた。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後は細川忠興領となり城番が置かれたが、
慶長11年(1606)廃城となった。
12年後である平成25年の段階では野犬の巣窟ではなくなっており、
見て回ることは可能となっていた。
山頂部分に天守台があり(左端画像)、石を用いた階段が残っている(左2画像)。
天守台の1段下には二郭が周囲を巡り、東側に三郭がある。
その北側から西に回り、南側まで空堀が巡り、
その斜面上には畝上竪堀があるらしいが、
かなり痕跡は薄くなっている。
藤原純友の乱の時に純友が築いたという説もあるが真偽の程はどうか。
関ケ原の戦いの後に筑前福岡に転封された黒田長政の家臣井上之房が国境を守るため
に黒崎城を築城した。が、1615年の一国一城令によりわずか11年で破却された。
現在は公園となっており、石垣が若干残っている。
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