香月五三郎則村が築城し、麻生氏の属城だったと云う。
(福岡県の中近世城館跡IIより)
住宅街の脇から竹林の山へ入れて、すぐに堀切がある。
主郭には祠があり、南側に虎口があるが、これはいつの時代の物かははっきりしない。
周囲に帯郭らしい物もあるがこれも後世の物かもしれない。
麻生鎮里の居城とも、麻生遠江守家延・兵部大輔弘重親子の蟄居の城とも云う。
(福岡県の中近世城館跡IIより)
工場の裏手に道があったが登りには気付かず強引に登り、横掘に到達した。
尾根は送電線の保線用か道ははっきりしている。
大小の郭が段々に残っており全域は広く、横掘がその周囲を囲繞している。
南西側はやや藪化や倒木で荒れ気味であった。
16世紀後半の中津城の築城の際に列石は運び出され石垣に転用された。
第1水門、第二水門、第三水門があるが、第一水門は簡単に見ることは可能である。
第二水門近くまで行ってみたが、沼地に出て引き返した。
内尾兼元の出城とされるが、規模からしてもっと大きな組織が想定され、黒田氏の関与も想定されている。
(福岡県の中近世城館跡IIより)
突端部分に送電線が立っており、木々が伐採されており、堀切と竪掘が遠目にも判別できるほどである。
道を登ると石塁を伴った郭が残る。東側は急斜面なためかそこまで防備が堅くないが、
西側斜面には巨大な畝状竪掘りが数本も残っており圧巻である。
郭群から叶松城への尾根にある堀切には土橋を伴っている。
野仲氏の出城で、城代は内尾伊豆守親賢、兼元(主水)親子で、黒田氏により落城された。
(福岡県の中近世城館跡IIより)
追揚城からそのまま尾根を登っていくと、辿りつく。
尾根道からの堀底道は後世の物なのかはっきりしない。
主郭背後に土塁と堀切が残る。
追揚城との中間地点辺りにも郭跡と竪堀の跡のような箇所があった。
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