内尾伊豆守親實が叶松城を本城、ここを出城としたと当地の祠の右横に立つ「友枝家祖先累世紀念塔」に記載されている。
(福岡県の中近世城館跡IIより)
内蔵寺山の急階段を登った所が跡で、祠と紀念塔がある主郭を囲むように、
空堀が周囲を廻っている。
後世の手で一部堀が埋められ道が作られてはいるが、よく残存してきたなと感心させられた。
「福岡県の中近世城館跡III」では、大三岳城と小三岳城を攻めるための毛利方の陣城と、
一方、「北九州・京築・田川の城」では吉川城の攻撃に備えた城ととらえている。
縄張りから推測すると、大三岳城と小三岳城を分断するために、最終局面で築かれていったか?
郭Aが他と比べ、割りと整形されている。郭B,C,D,Eは植林されており、
自然地形に近い。一方、小三岳城へ向かう道上にある、
郭Fは切岸が数段残り、緊張感も窺える。
郭Gは円形に近く、郭Hは小三岳城に対して切岸を設け、ここも緊張感を窺えた。
長野豊前守種盛が築城。永禄12年(1569)3月、毛利氏に滅ぼされ、落城した。
(福岡県の中近世城館跡IIIより)
麓から林道をそのまま進み、舗装路が終わり、分岐に出た所を直進すると堤に至る。
土塁が良く残っており、切通し状になっている。
送電線の補修階段を登ると郭Iに至る。郭Iは多少切岸などあるが、はっきりしない。
一旦平坦な郭IIIへ出て、南西側に延びる郭IIへ行くと、はっきりとした切岸が2段残っていた。
郭IIIから郭IVの間に、この城のハイライトである、2重堀切が残る。
今でもここを越えるのは苦労した。
郭IVは余り整形されていない。
ここから尾根沿いに東側へ下り、傾斜が緩やかになり、さらに東へ進んだ所に郭Vがある。
さらに東へ下ると郭VIがあり、北側に土塁らしい跡が残る。
長野筑後守(または兵庫大夫)が城主であったが、永禄11年(1568)に毛利氏により落城された。
(福岡県の中近世城館跡IIIより)
三角城の郭を経由して尾根を下って東進すると、送電線手前に、堀切がある。
送電線の先に深い堀切があり、ここから急斜面を登る。
郭内にも堀切が残り、主郭に至る。
南側に短い畝状竪掘群が多数残っていたようだが、見分けが付かなかった。
北東へ伸びる尾根を下った突端にも畝状竪堀群が残り、こちらは判別できた。
大三岳城に比べると切岸などはっきりしており、整備されている感がある。
杉因幡守が居城としていたため、いんしう城と云う名前が残っているかは断定できていない。
(福岡県の中近世城館跡IIIより)
城跡の広がる干草山へは、大坂山から障子ヶ岳城への縦走路へ入る手前を東へ尾根沿いに進むとテープもあり、
迷わずに行ける。
堀切2本あり坂を上ると、腰郭のある西の郭の中心に至る。北側には数本の堀切は確認できるが、
浅いため縄張り図の全てを確認はできなかった。東へ下る道が畝状竪堀の1本で石を使って補強されていた。
東の郭は細長く北斜面にあるはずの畝状竪堀も浅いためかよく判断できなかった。
463m地点の東の郭の中心の北側には堀切2本あり、御所ヶ岳へ縦走路となっている。
一方、南東へ尾根を下って行くと畝状竪堀も数本確認でき、腰郭を数段下った最後に竪堀となる堀切が残っている。
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