天正15年(1587)城井中務が築城し、家臣の壁兵助と城井宮内に守らせ、
一方、黒田長政は母里太兵衛、小河内伝右衛門に攻めさせた。
城井谷の第一の関門であった。(「福岡県の城」より)
赤幡神社の背後になるが、場所が非常に見つけにくい。
赤幡橋から右岸を南に行くと登り道があり、
登り切った所から南へ車が走れるくらいの道をしばらく行った所の右側に藪の中に入る箇所があり、
中へ入ると、平虎口がすぐにある(左画像)。
中は木々が繁茂しているのもあるが、不整地で、東側に空堀と土塁が良く残っている(右画像)。
150m×120mの台地上にあり、幅7mの空堀や土塁、20棟以上の建物跡が発掘されている。(現地観光資料より)
個人所有の畑となっているが、遠目にもその大規模さは確認できる。
宇都宮氏一族の伝法寺氏が城主で、天正年間(1573〜1592)は兵部大輔鑑満であった。(「福岡県の城」より)
正光寺の裏山でこちらからの方が登りやすい。
築上町の案内板はそれとは反対側にあり、道が整備されておらず登りにくい。
それほど大規模な城ではないが、縄張りが良く残っており、
西側には堀切、北側には堀切と土橋がやや埋まっているが残っている。
宇都宮氏後期の本城として築城された。(「福岡県の城」より)
求菩提山へ繋がる県道32号線を寒田からしばらく行くと、
宇都宮鎮房の幟が不自然な所にあり、そこが入口であった。
道はなく、尾根を5分登ると、主郭に達する。
本城という割に余り整備された感がなく、切岸も数段あるだけである。
宇都宮氏の詰めの城であった。(「福岡県の城」より)
村人や女・子の避難のための山城ともある。(現地観光資料より)
三丁弓の岩を過ぎてしばらく行くと、入口がある。
大手口は巨岩の隙間を利用している(左端画像)。
少し歩くと、やや整形された?ような空間に辿り着く。そこが主郭らしい。
また10分ほどさらに登って行くと、搦め手口があり、
鎖を使って20mくらい登ると、岩をくり抜いた口となっている。
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