懐良親王の豊前に侵入の際に持尾氏に守らせたという。
その後、大友氏家臣麻生弾正隆明がここに築城し守った。
しかし住民との諍いから居城を捨てた。
現在は碧巌寺の裏手にある山で、墓地となっている。
本丸は墓地の最高地点だそうで、南側に堀らしい跡がある。
また南側と東側には曲輪の跡らしき構造が残る。
北に道路を挟んで、那岐野城の曲輪跡といわれる、墓地がある。
宇都宮信房が神楽城の出城として築いた。
神楽城の鬼門(北東)にあたる、
この地に毘沙門天を祀ったのが名の起こりと云う。
現在は、今も本丸跡に毘沙門天が祀られてある。
本丸から北西にある曲輪には大堀切を設けてある。
その北西の曲輪跡は墓地となっているが、2条の堀切は綺麗に残っている。
北に虎口があるとのことだったが、よく確認できなかった。
神功皇后がここで神楽を奏したことから、名付けられる。
鎌倉幕府開府の際に頼朝に豊前の地頭として宇都宮信房を置く。
その際に、この神楽城が、その後本拠を萱切城に移るまで
代々宇都宮(城井)氏の本城となった。
木井神社から登山道が続く。夏場故か途中、道が薮化していた。
頂上が本丸跡だそうだが、
草が繁茂しまくり、おまけにブヨらしいのがいて、確認は容易でなかった。
登山道から本丸の手前に堀がある。
東側に畝状竪堀があったらしいが、薮とブヨのために未確認。
文献や地図にも載っておらず、
麻生氏の端城もしくは郷城らしく、はっきりしない。
学研都市に伴う、開発で発掘されたらしく、その後、宅地として消滅するようだ。
小規模な城址で、発掘物の少なさからも臨時的な砦的な城郭ととらえられている。
堀切と曲輪構造がはっきりと残る。
鎌倉時代初期に門司親房が築城。
碑の裏には、建長7年間の後、康元・正嘉の頃にも
門司氏により築城されたと見える。
現在、九州自動車道の上り線側の吉志SAの建物裏にある。
深夜に行ったために遺構はさっぱり掴めなかったが、
ほとんど残っていないと云う。
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