篠崎侯小笠原貞正が第2次長州征伐の際に小倉城、篠崎邸が炎上し
一時香春に逃れ、その後明治3年10月に築城。
翌4年廃藩置県で廃城となる。
千束小学校の裏手にある千束八幡神社が城址。
屋敷跡は神社で杉が植林されてある。
広津氏の居城。その後、黒田氏に降る。
天仲寺公園が城址だそうだが、吉富公園と隣接している。
吉富公園も城址なのか、2つの山からなる天仲寺公園だけが城址なのか、
よく分らない。
山国川を天然の堀としたのだろう。
山国川沿いに、
騙されて謀殺された城井(宇都宮)鎮房の娘が磔刑にあった所があり、
神社となっている。
天仲寺古墳を運悪く見付けられなかったが、せめて看板くらい設置して欲しい。
古墳のあるであろう山の頂上には、成人記念の杭が4、5本あるだけで、薮化していた。
明神山城の支城。大内盛見の侵入の際に城主曾我祐能は兄祐長を
明神山城に攻め討ち、大友方から大内方に叛いた。
前回来た時は見付けられずに退却したが、
祠から強引に10m弱登り、尾根道を左に進むと蛇面城無縁墓がある。
周辺には堀があって土塁がある。土塁を東に行くと平坦地がある。
北に3mばかりの土塁、南側は50cmくらいの石塁が続き、その下は崖となっており、
東にも土塁があり、長方形の空間に囲まれている。
室町時代初期、大内盛見が侵入した際に、曾我祐長が城主であった。
元来大友方であった曽我氏であったが、祐長の弟祐能が祖先の恩義から
大内方に叛くことになり、明神山城の兄祐長を討ち、
大内方に属した。
昨年(2004年5月)の段階では、堀を越えた本丸内は、薮化していたが、
今回(2004年5月)の状況は、人の手が入り、綺麗に整備されてあった。
堀は、ほぼ本丸の周りに巡っている。
豊前の守護である糸田(北条)貞義の居城。
伯父の規矩(北条)高政と建武の新政に対して反旗を翻したが、
失敗に終わった。
その後、田川の周辺は大友氏鑑と大内盛見の攻防の渦中に巻き込まれた。
その際、糸田城主糸田左馬允は初め大友方に、その後大内方に属している。
また、応永年間には、菊池武敏も城主の時期があったという。
現在は字として「城」と残っているだけで、竹薮しかない。
中元寺川を東に丘陵状になった地域である。西側にも高低差がある。
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