天正年間(1573〜1590)に吉川広家により築城された。
それ以前にも山名氏が城を築いていたらしいが詳細に分らない。
関ケ原の戦いで吉川氏は岩国に移ったので未完成なままであった。
その後、中村一忠が18万石で入った。
慶長8年(1603)に家老横田内膳が暗殺されると、その子主馬之助が飯山に立て籠り、
なんとか富田城の堀尾吉晴に援助を請い、鎮圧した。
一忠が慶長14年(1612)に急逝し断絶し、加藤貞泰が入った。
元和3年(1617)に大洲に移封となると、
池田氏が鳥取城に入り、その支城となった。
寛永9年(1632)に因幡・備前の池田家の入れ換えで、その家老の荒尾成利が城主となり、
以後荒尾氏が城主のまま明治維新を迎えた。
飯山と湊山に築かれた城で、本丸は湊山にある。
麓には枡形が残り(左端画像)、山頂の標高は90mある。
山頂には本丸と二の丸があり、石垣で築かれている。
また北側には内膳丸が残る。
国道9号線を挟んだ南側の飯山にも石垣があると案内板にはあったが、
薮で確認できず、忠魂碑のような物が立っているだけである。
山名氏支配下では行松氏、尼子時代には吉田光倫、毛利時代には杉原盛重が城主であった。
盛重が城主であった頃は尼子氏との争いが熾烈であった。
盛重が八橋城で病没後、長子の元盛が嗣いだが、
弟の景盛と内紛でもめ、暗殺され、景盛も切腹させられた。
吉川元春が居城したが、関ケ原後、中村伯耆守一忠が入り、
米子城完成まで在城したという。その後は、石垣を米子城へ移し廃城となった。
(大系・現地案内板より)
本丸、二の丸は山城のような形態で薮った山となっており、
今回は行けなかった。大山方面には土塁で囲まれた方形館の跡など残る(左画像)。
また桜の丸(右画像)は川が堀状に流れており、曲輪の1つずつが南九州の城郭のように、
独立した印象を受けた。
シャトーおだかや公共の施設が建てられたせいか、
遺構も消失しているように見えた。
方形館跡の薮は2mくらいあって放置された状態だったのが残念だった。
直前の雨でカメラ内に水が侵入したせいで、
レンズが曇ってしまったのが悔やまれる。
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