伊勢新九郎(後の北条早雲)が始め、今川家から与えられた城。
鳥谷に興国寺を移して築城した。
早雲はここを根城として関東の方へ進出していった。
その後、今川氏の持ち城となり、重要な位置を占めた。
が、永禄11年(1568)武田信玄が駿府を落とした際に、
北条氏邦がここを確保した。その後、武田氏と北条氏の協定があり、
武田氏の属城となった。天正10年(1582)に武田氏の滅亡の際に、
城主曾根正清は家康に降伏し、牧野康成が城主となった。
さらにその後、松平清宗が入り、山口直友が入った。
天正18年(1590)家康が関東に行った後、
中村一氏家臣川毛重次が城主となった。
関ケ原の戦いの後、天野康景が1万石で城主となったが、
除封となり廃城となった。
築城の時期は正確には知られていない。
が、元亀元年(1570)頃には武田氏の属城であった。
北条氏の戸倉城と度々小競り合いがあった後、
天正10年(1582)武田氏の滅亡で家康家臣松平康親が入った。
天正18年(1590)北条氏の滅亡後、中村一氏の弟氏次が3万石で城主となった。
関ケ原の戦いの後、大久保忠佐が入ったが、
慶長18年(1613)忠佐は没っし跡継ぎなく除封となり、翌年廃城となった。
その後、天領となっていたが、安永6年(1777)水野忠友が築城した。
明治維新まで水野家が続いた。
現在は石碑しかない。
三枚橋城の頃から狩野川を南端としており、
江戸中期の規模は戦国期の物よりも小さかった。
家康が大御所となって、住んだ城。今は家康の像も立つ。
武田信玄の頃、武田家が徳川家に対して持っていた城。
今は徳川家康の遺言により、久能山東照宮がある。2回も、
ここへ足を運んだが、未だに入ることが出来ないでいる。
家康はここで、茶屋四郎次郎(2代目?)のもてなしで、鯛のテンプラを食べ、
腹痛を起こし、そのまま駿府へ運ばれたが、そのまま帰えらぬ身となった。
一緒にスイカを食べたかどうかは不明。
ここ田中城は日本でも珍しい、円状の堀に囲まれた城である。本丸跡は、
小学校にあるよう。
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