沖縄貝塚時代後期末から利用され、13世紀頃に城塞として整備されたと推測される。
浦添城英祖王系2代目の大成王の5男の勝連按司が初代城主と伝承される。
9代目の茂知附按司が圧制と酒に溺れて、阿麻和利により倒され、阿麻和利はそのまま按司となった。
1458年阿麻和利は中城城の護佐丸を倒し、首里城まで攻め寄せたが大敗し、
大城賢雄を総大将とする首里軍に攻められ滅びた。
その後、廃城となったが、17世紀頃まで祭祀の場等に利用され、その後荒廃したと推測されている。
(沖縄の名城を歩くより)
世界遺産として登録されて整備されているが、東の郭とその先にある堀切はコースから外れる。
ハブがいる可能性が否定できず、本土のように気楽に藪漕げないのが残念である。
石灰岩の石塁が残り、二の郭跡には舎殿の礎石が残る。
また城内には5つの井戸の跡が残る。
琉球王国が成立する前の、伊波按司が越来按司をおいたといわれる。
1435年琉球王国成立後は第一尚氏6代目の尚泰久が王子時代に在城した。
第二尚氏の尚円も尚泰久に仕え、在城した。
1458年阿麻和利を討った、大城賢雄も越来間切の総地頭職となって越来親方を称した。
1470年第二尚氏2代目の尚宣威も王子時代に在城し、
1477年在位6ヶ月で越来隠退した。
1533年に中央集権政策の影響で政治的な機能が失われ、その後拝所となった。
(沖縄の名城を歩く・現地石碑より)
住宅地の中にある城前公園と化しており、拝所がある。
発掘調査では貴重な遺物も見付かっている。
14〜15世紀に使われた。『琉球国由来記』に見える「棚原城之殿」の平場がここであると推定される。
(西原町のサイトより)
棚原の配水タンクの横を通ってしばらく行ったところが城址であるが、
祠があるだけで遺構は良く分からない。
英祖王の父祖代々の居所であった。英祖王もここで生まれたという。(現地説明板より)
浦添城から北西へ伸びる尾根上の伊祖公園に残る。
中心部に伊祖神社があり、神社までの参道や参道の谷側に石塁が残る。
城域はさほど広くない。
1261年英祖王がようどれを造営した。
1524年第二尚氏第三国王尚真王の長子尚威衡が隠居させられた際にここを修復して住まいとしたという。
その曾孫の尚寧が王位に就くと、首里と浦添を結ぶ道を石畳道に改修し、竣工記念碑として、「浦添城前の碑」が立てられた。
江戸に連行された尚寧王は帰国後に浦添ようどれを改修し、死後そこに葬られた。(沖縄の名城を歩くより)
沖縄戦で前田高地として集中攻撃を受け壊滅的な被害を被り、さらに採石場となり、遺構はかなり消失した。
その後、ようどれの復元整備や城壁も一部復元された。
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