秩父氏の一族本庄氏が鎌倉時代に初期に小泉庄本庄地頭として下向し、本庄氏を名乗った。
16世紀初頭に築城され、時長、房長が城主だった。
天文年間(1532〜55)に繁長の時に越後国人衆中最大勢力の勢力となり、
永禄11年(1568)上杉輝虎に攻められ、本庄城に籠城、抵抗の末に降伏した。
以後、謙信・景勝親子に従った。
慶長3年(1598)上杉氏の国替え後、村上周防守頼勝が12万石で入り、村上城と改称した。
元和4年(1618)忠勝が改易後、堀直竒が10万石で入り、大改修と城下町の拡張を行い、
寛永19年(1642)以降、本多、松平、榊原、松本、内藤氏と移り変わり、
慶安2年(1649)松平直矩の時に改修し、明治元年(1868)北越戊辰戦争で焼失した。(大系より)
村上駅の東側にある臥牛山山頂を主郭とする山城で、
西側の麓に居館を構えた。
居館跡から登り口があり、四ツ門まで九十九折で、道の脇に竪掘が残っている。
北側が三ノ丸で、南に二ノ丸、本丸で二ノ丸は修理中であった。
南東側には本庄時代の遺構が残っている。帯郭まで確認したが、スタミナ切れでさらに下った所にある、
虎口や竪掘は未確認である。
天喜年間(1053〜57)に源頼光の一族の吉川宗方が弥彦神社の許可を得て築城した。
その後、大須賀氏、山岸氏と城主が代わり、慶長年間(1596〜1615)に廃城になった。
(現地説明板より)
弥彦城山森林公園となっているが、適度に公園化されていて(余り整備されてない)、遺構は割りと残っている。
西側に堀切があり、主郭がある。主郭の東側は堀切が通路と利用されているように見える。
東側の郭は腰郭が続き、堀切に至る。
南北朝の頃、頼政の弟頼行の孫頼連から続く小国氏が築城した。
御館の乱後、上杉景勝が小国家中の内紛に介入し、直江兼続の弟、与七(実頼)に小国氏を継がせた。
(大系より)
松ヶ岳城からしばらく歩き、最後の坂を登ると天神山城の尾根に出て、最初の堀切があり、
舗装路に下りる道になっている。
堀切を2つ越えると主郭で、さほど広くはない。
平虎口を出ると、細い道で堀切があり、幾つか郭を下ると、
大きな堀切が残る。
ここから北東へ進路を変えて下ると、石塁跡とみられる巨石が転がる郭に至り、見晴らしの良い見張り台に至る。
北側には瓢箪池と呼ばれる今も水の溜まる池と石碑のある武者溜りが残る。
天神山の出城であった。(大系より)
岩室神社から登山道がある。少し登ると、中腹の郭に至る。
そこから急勾配の坂を登り切った所が、主郭手前の数段の腰郭で、主郭は広い。
主郭から搦め手へ行くと、急斜面の坂を下り、2重堀切が残る。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。