文永2(1265)年に関実忠が現在の地でない所に築城。
元亀4(1573)年信長により、関盛忠が追放されるまで、
関氏16代の居城。城主が次々と代わった後、
延享元(1744)年に石川総慶が入ると、
そのまま石川家が城主のまま明治維新を迎えた。
現在、多聞櫓が残っている。公園の辺りに堀の跡がある。
信長の弟、信包により築城された。
その後、冨田氏が城主となった。
関ケ原の戦いで西軍の攻撃を受けたが、戦後、領主となった藤堂高虎により、
整備された。
現在は規模は縮小されているが、公園となっている。
堀と石垣が当時のまま残っている。
蒲生氏郷が会津若松に移る前、天正16(1588)年に築城した。
その後、服部一忠、古田重勝と城主が代わり、
元和5(1619)年紀州藩領となった。
現在は本居宣長の記念館(鈴屋)もある。
公園化され、石垣が多く残る、江戸期の城といったところである。
九鬼嘉隆により、8年かけて、文禄3(1594)年に完成された。
寛永10(1633)年、九鬼家の相続争いで、久隆が摂津三田へ、
隆季が丹波綾部に移封となった。
その後は、内藤、土井、松平、板倉、松平、
稲垣氏と城主が代わり明治維新を迎えた。
現在、城山公園、鳥羽小学校となり、本丸周辺に石垣が残る。
延元元年(1336)、北畠親房が後醍醐天皇を迎えるために伊勢に下り、
築城した。その後、多気に本拠地とした北畠氏の支城となった。
天正3年(1575)北畠氏を嗣いだ織田信雄が、三層の天守閣を建てるなど改修した。
が天正8年(1580)火災で天守閣は焼失した。
江戸時代に入り、紀州徳川頼宣の家老久野宗成が城主となり、
久野家が代々城代を勤め、明治維新を迎えた。(現地案内板より)
本丸と南北2つの大きな曲輪を中心に構成されている。
現在神社のある北の丸(左2画像)の外側には、
戦国期の遺構か、巨大な空堀と土塁でここを囲繞している(左3画像)。
またその外側にも土塁と空堀(水も存在)でここを囲んでいる(最右画像)。
東側には大手門跡と水堀が残る。また南側には搦め手門が残る。
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