承久年間(1219〜22)香西資村が勝賀城築城の際に麓の居城として同時期に築城したといわれる。 天正3年(1575)18代佳清が藤尾城 に移り住むまで、香西氏の居城であった。(大系より) 公会堂に説明板がある。大系に記載されている内堀や城の内はその北側であったのだろうか、 完全に見逃してしまった。そこから南西に香西五郎の墓所とある、養福寺がある。
香西氏の武将、筑城三郎左衛門が城主で、天正10年(1582)長宗我部元親の香西攻めの時に奮戦したという。
香西氏滅亡後は生駒親規に召抱えられたといわれる。(大系より)
周辺は住宅地や校地となって明確な遺構は残っていないが、街道を中心になんとなく雰囲気が残っている。
建武2年(1335)讃岐の守護、高松三郎頼重の居城であった。
細川定禅が足利尊氏に呼応して11月26日に挙兵し、喜岡城を落城させ、頼重はかろうじて屋島から船で逃れた。
その後は再び高松氏の居城となり、香西氏に属した。
天正11(1583)仙石権兵衛秀久が時の城主高松頼邑が守る喜岡城を攻めたことが「南海通記」に残っている。(大系より)
現在は喜岡寺と権現社があり、北側の崖の下に公園が残っている。付近は完全に住宅化され遺構は見出せないが、
北側よりも高い位置にある。
十河氏に属した三木半太夫景美の居城。(大系より)
天文年間(1532〜55)中村氏宗が城主となり、天正8年に火災に遭い、翌年子の宗卜は八栗に新城を築き移った。(現地説明版より)
現在はため池があり、そこへ向かって放つゴルフの打ちっぱなしとなっている。
その脇に小高い丘があり石碑がある。北側には今も川が流れ、かつての水掘だったか。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。