源平合戦の折、倶利伽羅峠の戦いを前に平家がここに拠った。
その後、上杉謙信の七尾城攻めの拠点となった。
前田家の時に、越中に対する備えとして利家の弟の前田秀継が入った。
その後廃城となった。
前田家加賀100萬石の本城。現在は石川門と石垣が残る。兼六園も近くにある。
平成13年8月現在では、今秋から行われる展示会が城内であるらしく、
城址の立ち入りが規制されている。
3代目前田利常がここで隠居生活を送った。
現在は芦城公園となって、あまり遺構ははっきりしない。
一向一揆などの争乱の場となった。その後、戸次広正、拝郷家嘉、溝口秀勝、
山口宗永が領した。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの前哨戦で前田利長に攻められ落城した。
元和の一国一城令で廃城になった。
寛永16年(1639)に大聖寺藩が成立した後は、この城は入山禁止となって政務は、
麓でとられた。
遺構は入山禁止だった為か、良く保存されている。
19年振りに来たら、説明板が増え、かなり整備されて、草刈もされていた。
「コ」の字の錦城山の中心に主郭を置いて、左右に郭が展開されている。
時間がなく、西の丸や鐘が丸方面に行けなかったのが残念。
長氏代々の城だった。貞治元年(1362)8代正連が荒屋城からここに移った。
天正4年(1576)11月上杉謙信により落城され、長沢光国を入れたが、
天正6年3月に謙信が病没し、8月に長連龍が奪回した。
しかし、11月に上杉氏の反撃に耐え切れず、落城し、越中守山城に逃げ、
天正8年4月に再び奪還した。
天正9年に前田利家に能登一国が与えられると、連龍は田鶴浜館に移り、
その後も利家に管理されていたようだが、ほどなくして天正11年以後に廃城となったようである。
(能登中世城郭図面集より)
現在は城山となり、主郭周辺は公園化されている。
西の港の方へ郭が数段残る。
能登中世城郭図面集によると、町役場から登ってくる道が大手だったとか。
主郭の東側に堀切が数条あったらしく、見逃してしまった。
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