安芸・備後7



美可崎城己斐古城己斐新城

美可崎城

尾道市(旧因島町)

因島村上氏が15世紀初め頃に築城したと推測される。 因島村上氏の部将南通弘(彦四郎泰統)が燧灘を行く船舶から帆別銭・駄別銭を徴収するために金山康時を城番とした。 (大系・現地説明板より)
因島の南部、燧灘が見える位置にあり見晴らしが良い。 西側は果樹園となっている。守りの城でないためか凝った遺構は残ってないようである。

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己斐古城(岩原城)

広島市【最寄り駅】JR山陽本線西広島駅

詳細は不明。太田川河口の西端に位置し、船舶の監視ができる。(現地説明版より)
最高地点と思われる小高い小山が主郭だろうか。さらに西側に行ったもう1つのピークの外側に堀切のような跡があるが、 後世に作られたものかもしれない。 旭山神社参道脇から登山道が繋がっており、 竹藪に入ると遺構らしい雰囲気になる。 郭と切岸、堀切が残るだけで技巧的でなく、名前の通り、己斐新城よりも古いようである。


己斐新城(平原城)

広島市【最寄り駅】JR山陽本線西広島駅

長禄元年(1457)武田方に属しており、大内氏に攻められ、落城し、 守将の戸坂信成が戦死した。 己斐豊後守入道宗端が城主であった永正12年(1515)武田元繁に攻められたが、持ちこたえた。 宗端は有田の戦いで討ち死にしたが、その子、豊後守直之は弘治元年(1555)の厳島合戦の時に、 宮尾城に入った。(大系・現地説明版より)
小学校への登り階段の横に登山道があり、階段を登り詰め、登山道を行くと、後世作られたであろう石の階段があり、主郭と二の丸の堀切跡に至る。 主郭にはとくには土塁もなく、北側がやや高い。東側へ急斜面を下ると、桂原天神の祠がある東郭に至る。 さらにそこから、東側へ尾根を下るとやや埋まっているが2重堀切のような跡が残る。 さらに下ると堀切が1本、さらに鞍部にもう1本ある。 尾根はまだ続いており、一旦登り返し、さらに北上すると、円形の土塁で囲まれ、さらにその中に円形の土塁状の妙な遺構がある。 烽火台か炭焼きの跡だろうか。 東郭へ戻り、北側へ回り込むと、2段からなる北郭があり、 さらに北側へ下る道があるので進むと、2本か3本程堀切が残っている。 北郭から西郭へは狭い斜面を伝ってなんとか行ける。 西側斜面は岩盤が出ており、堀切のような遺構は内容だった。 南郭から大手道の間には竪堀跡の石碑もあり、埋まっているがなんとなく痕跡が残っている。





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