豊前筑前の守護職大内盛見が築城した。
その後、古処山を本拠とする秋月氏の居城となった。
秀吉の九州征伐の際に、秋月種実は島津方であった。
秀吉方がまず秋月氏の岩石城を1日で攻め落としたのに驚いた秋月種実は、
慌てて益富城を再利用されないように破壊して、
嫡男秋月種長の籠る古処山城へ逃げ込んだ。
それを見た秀吉は夜陰を利用して地域住民から障子を集めさせ、
益富城に白亜の城を築いたように見せかけた。所謂秀吉の18番の『一夜城』である。
さらに地域住民に夜炬火をたかせた。
それを古処山城から見た秋月親子は戦意喪失し、種実は頭をまるめ、
娘と茶器で有名な『楢柴』を献上して降伏するに至った。
その後、黒田家家臣の後藤又兵衛の居城となったが、彼は出奔したので、
鷹取城
城主の母里太兵衛友信が城主となった。因みに彼は麓の麟翁寺に葬られた。
2002年3月現在発掘調査中で一部入れない区域がある。
秀吉の九州平定後、筑前に入った小早川氏の家臣日野氏の居城。
小早川氏の関ケ原後の転封により廃城となった。
現在は123mの頂上にある本丸跡に琴平神社の本尊が祭られてある。
はっきりとした遺構はないものの匂いは感じさせるものがある。
碓井町と嘉穂町の町境にある長谷山の頂上(315m)にある。
豊前筑前の守護職大内盛見が築城。近辺の郡主高橋盛綱を城主にすえた。
その後、秋月種実の支城となった。
本丸跡からの眺望が良く、背後にひかえる古処山城の支城であったことは肯ける。
本丸跡には曲輪の跡があり、尾根伝いに堀切を含めて曲輪が存在したようだ。
能古島の渡船場から500mばかり海沿いに行ったところにある小高い丘の上にある。 現在は観音堂が立っているところが本丸跡と推測される。 その裏(西側)には、堀切が残り、それを隔てて別の曲輪(現在、畑)がある。 また、城の入口からの登りの途中には曲輪跡も存在する。
宗像氏の支城。大友氏の侵攻の前に落城。
現在は犬鳴山の頂上で、本丸北には曲輪跡も見られ、
また南にも曲輪跡らしきところが存在する。
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